なんだかんだ1か月開いてしまいました。
こんにちは、しゅー太です。
この間(?)のGWは外出自粛の(同調圧力に負けた)ため、
自宅で大人しく過ごしていました。リングフィットとか読書とかブログ書いたりとか。
そう、なんとこれ書き始めたの5月頭なんですよね。どれだけ時間使ってるんだ。
余計な事含めて書いてたらもう6月ですよ。早いね。
そして、そろそろまた旅に出た意欲が高まってくる今日この頃。
コロナが収まるかは兎も角、外出自粛ムードは緩和されそうだから、堂々と出掛けても大丈夫にはなりそうですね。安全かは知らん。
今回は一乗谷へ向かう所からスタート。
[2日目:2018年7月29日(日)AM 9:00]
お世話になったホテルをチェックアウトし、出発。
夏らしい、気分の良くなる晴れの日でした。
ずっと眺めていたくなりますが、一乗谷に向かうため、駅へ向かいます。
そういえば前回掲載し損ねていた、えちぜん鉄道の福井駅の写真。
さて、一乗谷へはJRを利用します。九頭竜線という路線です。かっこいい。
正式には越美北線と言うらしく、九頭竜線は愛称らしいのですが、福井駅その他での旅客案内では九頭竜線の愛称が使われているそうです。確かに呼びやすいよね。
九頭竜線の由来は、終点である九頭竜湖駅から付けられていますが、その九頭竜湖は九頭竜ダム建設によってできたダム湖です。九頭竜ダム自体は九頭竜川を利用する目的で建設されたものですが、その九頭竜川の由来と思われるのは、以前解説した白山信仰で登場した九頭竜でしょう。その際、九頭竜王が白山権現を名乗り泰澄の前に現れたという話をしました。その白山権現が889年に衆徒の前に姿を現し、尊像を川に浮かべると九つの頭を持った龍が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒龍大明神(黒龍大神として白龍大神とともに黒龍川(後の九頭竜川)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願・創祀された。)の対岸に泳ぎ着いたと言います。以来、この川を「九頭龍川」と呼ぶようになったと言われています。
九頭竜が出てくる伝承は日本全国にありますが、そのほとんどは最終的に善性を帯びていたり、改心するものになっています。似た神話生物に日本神話に登場するヤマタノオロチが存在しますが、こちらは「水害の化身」とされ、悪性を持つものとして退治されています。『古事記』や『日本書紀』においてスサノオノミコトが八塩折之酒(やしおりのさけ)と十束の剣(とつかのつるぎ、別名:天羽々斬(※あめのはばきり))を用いて退治したエピソードが有名ですね。
※羽々(はは)とは大蛇を意味するとのこと。
しかしながら、どちらも蛇(竜)かつ水を司る神なのに、なぜ差があるのでしょうか。
九頭竜の成り立ちは、元々インドの蛇神ナーガラージャであるヴァースキが、仏教に八大龍王として取り込まれ、それが日本に伝来した際に九頭竜となりました。また竜は蛇として扱われますが、これも中国から伝来した竜が日本の蛇神信仰と融合した結果となります。何が言いたいかと言えば、九頭竜も神仏習合の結果として誕生した産物だということです。
蛇は日本において古来より、害獣を駆逐する面から「豊穣」の象徴とされており、また、蛇が男根を連想させ種神から転じて穀物神としても信仰されたため、「田の神」としても祀られるようになりました。「田の神」から「水神」が結びつき、蛇は水神の使いもしくは水神そのものと見なされるようにもなりました。蛇だけでなく九頭竜自体も現世利益を求める密教において、雨乞いを司る存在になっています。
※現世利益:神仏の恵みが現世で与えられるとする信仰。俗にいう神頼み。
ちなみに、蛇は豊穣の他に男根や脱皮をする点から「生と死(死と再生)」も象徴しています。悪い意味で現在世間を騒がせている世界保健機関(通称:WHO)のマークにもなっている「アスクレピオスの杖」にも蛇の意匠が見受けられます。また、「永遠の生命」や「終わりがない」といったことを意味することもあります。後はシロヘビは幸運をもたらすなんてのもありますね。
つまり九頭竜は、「祀られるべくして登場した存在」と言えなくもないということになります。そこがヤマタノオロチと違う点になりますかね。
また同じ仏教かつ水神なら弁財天もいますが、この九頭竜伝承が広まっている場所の共通点に修験道があった山が多いという点が挙げられます。こういった山々は山自体が神秘性を帯びており、豊穣を感謝して山を神様と見立てた水神信仰もあります。神秘性の高い場所であれば竜のような怪異が登場してもおかしくありません。弁財天においても蛇は神の使いとされる場合がありますが、弁財天自体に豊穣の意味がないので九頭竜の方が自然と言えるでしょう。宇賀神の使いとして蛇が登場することがありますが、こちらは穀物神の側面だけとなります。(まぁ、後の世で弁財天と宇賀神が合体するんですが・・・。)
また、竜は雷に見立てられることもあり、雷が「雨をもたらし耕作を手助けするもの」として解釈されていたため、九頭竜が登場したという説もあるそうです。
白山という条件を見てみてもこれほど九頭竜の伝承が出てくるのにふさわしい地はないですね。
閑話休題。
さて、ではそんな偉大で恐れ多い神様の名前が付けられた路線を使って、福井駅から一乗谷駅まで30分位かけて向かいます。
それではホームに向かいますか。
なんじゃこりゃぁあ!?(低音ボイス)
今まで、ボタンで開閉や手動でドアをスライドする列車には出会ってきましたが、まさか押して山折りするタイプのドアがまだ現役であるとは思わなかった・・・。
今時バスだって自動だぞ。
これから先このタイプの列車に乗車することがあるのだろうか。
なんて、物思いに耽ながら一乗谷へ向けて出発。
9:30頃に到着。降車したお客さんは数人いましたが、みな同じ方向に歩いていく様子。
とりあえず付いていけばたどり着けそう。とりあえず、駅前にある地図を写真に収めましょう。迷ったら困るからね。
意外に目的地まで距離がありましたが、予定通り歩いていきます。
文字がかすれて読みにくいけど、春日神社というらしい。
奥に続く階段があり寄り道をするか迷ったけど、自然に溢れている道だったので撤退。
変な虫とかに刺されても面倒だったので諦め。冬か肌が露出しない服をまとっていたら突入したんだけどなぁ。
駅から歩いて15分くらいでようやくエリアに。もう汗が止まらない。。。
モニュメントが見えたあたりで、ちょっとばかし一乗谷の解説を。
一乗谷はかつての戦国大名、朝倉氏が1471年に本拠地を移し、治めていた地域です。ここに朝倉氏は一乗谷城を築き、辺り一帯は城下町となり103年間繁栄しました。その間に1467年に起こった応仁の乱にの結果、荒廃した京都から逃れるように多くの公家(貴族)や僧侶、文人や学者たちといった文化人が流れてきたため、一乗谷は飛躍的に発展し、「北陸の小京都(北ノ京)」と呼ばれました。一番栄えていたのは4代目朝倉孝景(さっきのとは別人さん。初代「孝景」の名前にあやかって自身も同じ名前を名乗った。法名は「宗淳孝景」。)の頃で、最盛期には人口1万人を超えており、当時の戦国大狂乱な時代においても勢力を持ちつつも比較的平穏であったため、より多くの文化人が流れてくる地域となっていました。
そんな風に5代にわたって繁栄した一乗谷でしたが、1537年の一乗谷城の戦い(刀根坂(とねざか)の戦い)によって、朝倉氏は織田信長に敗北。一乗谷は焼き払われてしました。朝倉氏は敗れた後大野へ敗走(寺院を転々とするが最終的に自害)、旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵されました。その後は、朝倉攻めの道案内を務めた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が、信長から守護代職を与えられ一乗谷に館を構えて越前を統治しました。しかし、朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊が守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わず、民衆に一揆を起こさせるために画策。1574年の越前一向一揆(平泉寺白山神社が全焼したアレ)へと繋がっていきました。
とまぁ、朝倉氏が追われてしまった後も火種が尽きなかったのがこの一乗谷と言う地なのです。
長々と書きましたが、これから向かうのはそんなかつての姿を垣間見せる「一乗谷朝倉氏遺跡」。福井市の南東約10キロに広がる史跡は、武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定されています。一部ではかつての街並みを再現した場所もあり、当時の雰囲気を味わうことができます。
んじゃあ、見ていきましょう。
この先にまずあるのは平面復元地区。
こんな感じの地区がそこそこの広さで広がっている。一軒一軒の間取りは小さい感じ。
関係ないけど、木陰がないのがつらい(小声)。
ここからさらに日に照らされ続けながら歩くこと約10分。
漸く目的の街並みが再現された場所までやってきました。
復原町並。開場は9:00~17:00(最終入場は16:30)までで、入場料は当時210円。
今は220円みたい。詳しくはこちら→復原町並ホームページ
個々の滞在時間は30分ほどで、ゆっくり見ても1時間はかからないと思います。
街並みの他にも資料館の役目を果たしている建物があり、パネル解説や展示物が配置されています。後はビデオなんかも流していたから、暑さを避けて休憩がてらに見ることができます。
街並みの方はそこまで広くありませんが、しっかりと雰囲気を堪能できるように作り上げられているので、満足できると思います。
写真撮るの下手かよ。
ここ一乗谷は当時の遊び道具として、将棋を筆頭に双六や囲碁が盛んだったようで、関連する出土品が数多く見つかっているそうです。
将棋の駒には「朝倉駒」と呼ばれる独自の駒が存在していたみたいです。
当時使用されていた大工道具なんかも出土。結構綺麗ですね。
生活に必要な水をためておく場所・・・だった気がする。流石に覚えてない。
こんな感じで用途別に建物を見学できるようになってます。
また、道路を渡った反対側には朝倉義景館跡があります。
遺構はだだっ広い敷地の中に庭があったり、朝倉義景のお墓もあります。
時間をかければ、遺構が残っている一乗谷城跡地を見に行くこともできますが、歩きだとちと厳しいので今回はスルー。毎回こういう時車で移動したくなるけど、一人だとレンタル料バカにならないんだよね・・・。
とりあえず、一通り見終わったので、売店復原町並に直結している売店でアイスを買ってしばし待つ。
ここ一乗谷では「朝倉ゆめまる号」という無料の観光シャトルバスが運行されており、観光スポット同士をショートカットすることができます。
ちなみにこの日2回ほど利用しましたが、乗客は僕一人でした(小声)。
時間に余裕があるので、この後は朝倉資料館に向かいます。
暑すぎて建物の中に入りたい欲に負けてしまった・・・。
次回はそこから。