しゅー太の奇譚回想記

興味の赴くままに、風のようにふらふらと

鉄道日本一周-<北陸編>⑨ 福島(会津若松)

気が付いたら前回の記事から、3か月くらい経ってる・・・。

バグかな?

記事書くのだけでこんな手こずるのに、動画とか編集している人はすごいなと感じる今日この頃。

10月にはGo To トラベルを利用して、名古屋~奈良辺りをプラプラしてきたから、書くネタが溜まり続けるアレ。

何とかしないと・・・。

 

[4日目:2018年7月31日(火)AM 7:30]

ちょっと早めにチェックアウトして、朝ごはんを食べられるところを探しつつ、鶴ヶ城へと向かう。

途中都合よく牛丼チェーン店を見つけたので、インして朝ごはんを済ませました。

お値段手ごろでそれなりに満足できるので助かります、ほんと。

体も小さい(160㎝くらいしかない)ので、まぁこれでも足りる。

身長小さくて個人的にあまり困ったことなかったけど、最近もう少しあればなぁって思うことが増えてきた。今更だけどね。

 

ゆっくり朝ごはんを食べて、再び鶴ヶ城へ前進。大体8:30手前には目的地へ到着。

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開城は8:30なので時間ぴったり。効率よく今日は動けそう。

鶴ヶ城

別名、若松城。その他にも会津(若松)城、(会津)黒川城などと呼ばれることも。

鶴ヶ城の始まりは、室町時代(さらに詳しく言うなら南北朝時代)に東北に領地を持っていた会津蘆名(あしな)氏が建てた東黒川館(小田垣の館)が前身であると言われています。

この蘆名氏、戦国時代には奥州の伊達氏と肩を並べるくらいの有力大名の一族となるのですが、その後、後継者問題や家臣の統制がうまくいかず次第に衰退。1656年に家系は断絶することが確定しました。

『館』とある通り最初に天守閣等はなかったのですが、遅くとも15世紀半ばまでには黒川城とその城下が完成したと考えられています。

その後しばらく蘆名氏の居城となっていましたが、安土桃山時代の1589年にそれまで幾度と戦いを繰り広げていた伊達政宗に攻め入られとうとう敗北。伊達氏に奪われた黒川城は翌年の1590年に豊臣秀吉の元へと渡りました。

 

 その後は、1592年に伊勢松坂(三重県)の領主である蒲生氏郷(がもううじさと)会津が与えられ、黒川城に入城しました。

蒲生氏郷は勇敢な武将で、また宗教や和歌などに理解のある文化人的側面も持つ文武両道な人物でした。とても優秀な人物でしたが、1595年の40歳という若さで亡くなりました。

さて、この氏郷が入城していた時期に何をしたかと言いますと、城の大改修を行い現在の姿に近いものとなりました。また、この改修を中心として城下町の建設を実施し、そして町の名前にもなっていた「黒川」の名を氏郷の出身地である「若松の森」にちなんで「若松」に改められました。城の名前に鶴ヶ城と名付けられたのもこの時期です。こんな感じで、この時期に大体今の会津若松の基盤になる形へと変形していきました。

 

氏郷没後は、子の秀行が後を継ぎましたが、お家騒動により下総国宇都宮へ転封(領地を移されること)し、秀吉の命で1598年に上杉景勝が越後から入封しました。

しかし、同年に豊臣秀吉が亡くなると徳川家康が台頭し始め、1600年に会津攻めを敢行。その背後から挟み撃ちにして家康を打ち取ろうとした石田三成が兵をあげ、世に有名な関ケ原の戦いが始まりました。結果はご存じの通り石田三成率いる西軍は敗北し、景勝は出羽国米沢へと転封させられてしまい、1601年に再び秀行が入城しました。

 

入城後、鶴ヶ城の整備や町方の振興に努めましたが、1611年に起きた会津地震により鶴ヶ城の石垣は崩れ、天守閣は傾き、山崩れで阿賀川がせき止められるなど大変な被害になあいました。この同年に正月には江戸屋敷(幕府から与えられた大名屋敷)が全焼、冬には干ばつの被害に遭うなど、会津にとって災厄の続く年となりました。こうした出来事から秀行は心労がたたり、1612年に30歳と言う若い年で亡くなりました。後を継いだのは秀行の嫡男である忠郷でしたが、当時わずか10歳であったため、お家騒動が絶えませんでした。そして、1627年に忠郷に嗣子がいないままこれまた25歳と言う若さで亡くなったため、秀行の次男の忠知が後嗣となり伊予国松山に移封され、代わりに松山より加藤嘉明(かとう よしあきら/ よしあき)が入封しました。

ちなみに忠知も30歳で後継ぎなく亡くなり、これをもって蒲生家は完全に断絶しました。

 

4代続いて若いうちに亡くなるなんて、ついてなさすぎるよなぁ・・・。

 

嘉明は会津に入った後、領内の整備に努めたり、村々の石高を調べて所領を確定するなどを含め、領内の経営に尽力しますが1631年に69歳で亡くなりました。その後は、子の明成が北と西にあった馬出をそれぞれ出丸(お城から離れた位置に作られる曲輪)にしたり、会津地震で壊れた天守を今に見られる形で改築したりしました。

 

ただ、こうした大改修は幕府が好むものではなかった(まぁ戦う力持たれても困るよね・・・。)ため、1643年に明成は改易させられ出羽国山形より、徳川家康の孫(ただし落胤)でもあった保科正之が入封し、以後明治維新まで会津松平氏(保科氏からの改名。正之の子である正容が三代目を継ぐと、幕府から松平の氏と葵の家紋を与えられ、正式に会津は徳川の親藩に組み込まれた。)の居城となり、9代に渡って藩政が行われました。

保科正之の主な実績の中には家綱の時代に、家綱の補佐に入り文治政治を推し進め、末期養子の禁の緩和殉死の禁止を実行しました。

文治政治武断政治(=武力を背景とした政治)を止めて、儒教朱子学)といった学問や教養を普及させ社会の安定を目指す政治。武断政治によってこの当時の社会秩序は最悪だった。

また、家訓15か条を定め、徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明確にし、何か決断する際はこれを拠り所として藩政の精神的な柱としました。

要するにめっちゃ凄いことやっためっちゃ凄い人ってこと(雑)

 

そして最終的に会津が全国的にも有名となった戊辰戦争が1868年に起こります。

戊辰戦争のきっかけを簡単に説明すると、武力による討幕を行いたかった西郷隆盛率いる薩摩藩でしたが、幕府は攻撃される前に大政奉還(権力を朝廷に返す)を行い、幕府をなくすことで攻撃されないようにしました。(賢いけど、「ぶっちゃけもうこうするしかなかった」みたいな所ある。)

攻撃する大義名分を失いましたが、なんとか戦争に持ち込みたい西郷。幕府側から攻撃を仕掛けてもらえるよう浪人使って挑発行為を実施しました。その挑発がエスカレートした結果、江戸城の二の丸が焼かれる事態にまで発展し、旧幕府側も我慢ができなくなり薩摩藩へ攻撃を開始。そしてこれが戊辰戦争の始まりとなりました。

 

結論から言えば、旧幕府軍側である鶴ヶ城は一か月間程度、新政府軍の攻撃に耐えましたが降伏します。この戦闘で多くの被害を受けた鶴ヶ城ですが、修復等はされずしばらく放置プレイをかまされ、1894年に解体されてしまいます。

今ある鶴ヶ城は再建されたものという訳ですね。

 

(雑にお城の写真垂れ流し)

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 綺麗な作りですよね。

お城の再建については、本丸は1960年に、天守は1965年に鉄筋コンクリート造で再建されました。

第二次世界大戦後には会津若松市が、戦後の非常事態とも言える財政難を解決するための手段として、本丸内に競輪場が設置されていたこともあるらしいです。

(場所も手段も選ばない、なりふり構わなさ大好き)

戦後復興策として自転車競技法という法律に基づくものらしいですね。

やはり世の中を救うのはギャンブル。お上も言うんだから間違いねぇ。

 

鶴ヶ城の中は、ご想像通り資料館となっています。

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申し訳程度の天守からの景色

行く時には利用しませんでしたが、勿論会津若松市にも周遊バスがあります。

大体30分周期で動いています。

ルート策定にどうぞ。

周遊バスには

・モダンなスタイルが特徴で赤と青の2車両ある「ハイカラさん」

会津地方が発祥の赤べこをイメージした真っ赤なボディが特徴の「あかべぇ

の2種類が存在します。

デザイン以外に違うところはどこなんだって言うと、会津若松駅を背にして右回りか左回りかどうかです。

右回りがあかべぇで、左回りがハイカラさんです。

鶴ヶ城に向かうならハイカラさんが便利です。

例にもれず1日フリー乗車券もあります。600円です。

2020/11/18現在、なんと今なら会津若松駅前にある「Terminal Cafe & Shop」にてフリー乗車券を提示することでドリンクやアイスクリームが20%オフになるみたいです。

お得ですね。

時刻やルートなど詳しくは下記リンクから。

www.aizubus.com

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鶴ヶ城を観光したら、次の目的地へハイカラさんを使って移動。

 2,30分揺られて飯森山下で下車します。

ここにあるのは白虎隊記念。入場料は大人400円。

割と小さい。

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館横の銅像


www.byakkokinen.com

白虎隊とは、戊辰戦争の一つである会津戦争において会津藩が組織した少年兵隊です。

部隊員の年齢は16~17歳程度で、幼少組として13歳の少年も参加していました。

新政府軍と交戦し、奮戦むなしく敗走。最後は飯森山まで逃げ延びたものの、深手を負ったこともあり、これ以上戦えないことを悟り集団自決を実行。一人を除き死亡するという凄惨な出来事がありました。

(この時、7人自決して6人死んだとする説と20人自決して19人死んだとする説があるみたいです。)

”悲劇の白虎隊”という認識で日本人の中に広がっているのではないでしょうか。

メディアでも時々取り上げられたり、学校の教科書の端くれに載っかっていることもあるので、「自決した少年兵」という知識は多くの人が持っているんじゃないですかね。

ちなみに、自決の際に守るべき鶴ヶ城周辺から上がる煙から陥落したと勘違いして自決したという話をよく聞くかとは思いますが、実はそうではなく「生き恥を晒すなら武士らしく死のう」となり自決に走ったみたいです。

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元々白虎隊は予備兵力で、会津藩が劣勢となる中で戦力投入されました。

ちなみに、察しがついている人もいるとは思いますが、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊があります。

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うおおおおおおおおおおお!ドラグーン!ドランザー!ドラシエル!ドライガー

それぞれ白虎隊を除くと、以下の通りの内容となります。

朱雀隊:18歳から35歳まで、隊員約1200名
青龍隊:36歳から49歳まで、隊員約900名

玄武隊:50歳から56歳まで、隊員約400名

つまり年齢によって部隊構成がなされているという訳ですね。

また隊員数も3桁で、そこそこいますね。

となると勿論白虎隊もそれなりの数で組織されている訳で、

白虎隊:16歳から17歳まで、隊員約300名

で組織されていました。

”悲劇の白虎隊”ばかりがクローズアップされますが、あれはほんの一部のことだということなんです。

まぁ、改めて考えると予備兵とは言え戦争にあたる部隊だし、これだけいるのが当たり前だけど、これだけ多くの若者が戦いに出ていたという。

そして、敵である新政府軍は最新鋭の武器を持ち、人・物資共に物量も豊富。

それに比べ、旧幕府側はじり貧

しかも白虎隊が持たされていた武器は「まぁ、火縄銃よりはマシかな」レベル。

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手札には無限の可能性が秘められているぜ!城之内君!(大嘘)

また、戦士や自決をしなかった約290名に関しては、明治維新後まで生き延びました。

言うて明治維新自体が大政奉還(1867年)後の明治初期を指すのでそんな長生きはしてない。

そんな白虎隊に所縁のある品々や歴史がまとめられているのがこの白虎隊記念館なのです。

そして、ここの最寄のバス停の名前は飯森山下でした。

そうこの白虎隊記念館の裏手が件の飯森山になります。

そのため、ここには白虎隊を弔うための慰霊碑などもあります。

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また、ここには円通三匝堂(えんつうさんそうどう)、通称さざえ堂があります。

西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂で、その形が貝のさざえに似ていることからさざえ堂と呼ばれています。

この建物の唯一無二の特徴がその構造で、階層の移動は螺旋通路によって移動するのですが、なんと上りと下りで同じ道を通らない一方通行の道となっています。

意味わかんないですね。

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頭の方が途切れているセンスのなさ

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側面。螺旋階層がよくわかる。

入場料は400円。正直ぼってると思いました。

諸々観光して大体30分くらい、1時間あれば余裕を持ちつつ見終わることのできる場所だと思います。(電車の時間見間違えたので駆け足になったのは内緒。)

 

急いでバス停まで向かって会津若松駅まで向かう。

このまま新潟駅までいったん引き返します。

今回もお世話になるのはハイカラさん。

結局あかべぇには一回も乗車しなかったな・・・。

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あいるびーばっく

今回は会津若松だけの観光でしたが、ここを拠点にして東側に猪苗代湖五色沼裏磐梯、南側にネギそばで有名な大内宿があるので、是非観光しに福島まで足を運んでみてください。楽しいですよ。

 

区切りもいいので今回はここまで。

前回の予測ははずれ、次回でこの北陸編も終わり(にしたい)。

年内で完結できるといいなぁ。

気持ち次第。

 

withコロナ、ニューノーマル、3蜜、小5etc

その他いろいろな言葉や定義が生まれていますが、各々やれることやって、

(まだまだ先は長そうと思いますが)ストレスを貯め過ぎないよう頑張りましょう。

 

正直コロナ止めるのは無理だと思うんだ(大声)