しゅー太の奇譚回想記

興味の赴くままに、風のようにふらふらと

鉄道日本一周-<北陸編>③ 福井(平泉寺白山神社)

こんにちは、しゅー太です。


コロナの影響でこれを書いてる週は自宅待機となったので、時間をフルに使ってました。

更新自体はのろのろペースですが、書きたいこと書いて進めていきます。

 

はよ出かけたい(本音)


[1日目:2018年7月28日(土) AM11:45]

永平寺門のバス停からバスに乗って、揺られること約15分。

永平寺口駅に到着。

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綺麗な駅舎をしています。

ここから勝山駅まで行くのですが、乗車ついでに下記のフリーパスの購入しました。

www.echizen-tetudo.co.jp

これでこの日はえちぜん鉄道が乗り放題となりました。

普通に払うと乗車賃が高く付いてしまうので、このフリーパスは必須かと思います。

値段は1000円なので、お手頃なのも〇。

 

ここから勝山駅までは30分ぐらいかかります。

ちなみに前項で取り上げた恐竜博物館へはこの勝山駅から向かうことになります。

バスが出ているのでこちらに乗車しましょう。

接続情報 - えちぜん鉄道株式会社

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それでは向かいましょう

 そして12:20ごろ勝山駅に到着。

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こちらでも恐竜がお出迎え

さて今回勝山に来て恐竜博物館に寄らず何をするのかと言うと、タイトルにもある通り平泉寺白山神社を見に行きます。

こちらにもバスで向かいます。下のリンクにバス情報が載っています。

接続情報 - えちぜん鉄道株式会社

実際に行った注意点ですが、上記のバスの時刻表を参考に帰りのバスを待っていたのですが、時間になっても来ません。バス停に掲載されているものを確認しましたが間違ってはいなさそう・・・。

その後少ししてバスが来たのですが、運転手の方に「少し待ってから出発する」と言われました。お話を伺ってみるとバスの時刻表に変更があったとのこと。

ですので、上記の時刻表は参考程度に留めておくことをお勧めします。

(とは言え、本当に変更したのならネットの情報も更新しておいてほしい・・・。)

今も同じなのかはわかりませんが、自分が行ったときの時刻表は電車の接続には合わせてはいたので、その点は心配いらないと思います。多分。(勿論予定していた電車にも乗れました。)

ちなみに、バスの料金は毎日運行しているローカル線が200円、土日祝限定の観光バスが300円となっています。

 

自分はローカル線に乗って向かったので、乗車時間は30分ほどとなりましたが、観光バスの方は長くても15分位で着くようです。ただ本数が少ないのでその点も気を付けなくてはいけません。

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そして到着!

平泉寺白山神社とは、「へいせんじはくさんじんじゃ」と読みます。「ひらいずみ」ではないです。717年に泰澄(たいちょう)によって開かれたと言われており、明治時代までは霊応山平泉寺という名称でした。

また、かつては源頼朝に追われた源義経らが、山伏に姿を変えて奥州に逃げる途中でここに立ち寄ったと言われ、義経や弁慶に関する伝説も残っています。

 

さてここで気になることが一つありませんか?そう、

ここは寺院なのか、それとも神社なのかという点です。

 

そもそも、名前にもなっている「白山」は富山・石川・福井・岐阜県の4県にまたがる両白山地の中央に位置する山で、富士山・立山と合わせて『日本三霊山』に数えられています。霊山とは、神聖視され信仰の対象とされた山、即ち山岳信仰の対象の山を指し、この白山も古くから信仰の対象でした。白山から流れる豊富な水によって人々の生活が成り立っていたため、山自体を水神や農業神といった神体として山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川手取川長良川流域を中心に崇められていました。(このような日本古来の純粋な信仰を『古神道』といいます。)

 

古くは紀元前91年に白山を拝むための遥拝所「まつりのにわ」が創建されたと言われており、祭神は菊理媛尊(くくりひめのかみ、白山の白山比咩(ひめ)神と同一視されている)、伊邪那岐尊イザナギノミコト・伊弉諾命)、伊邪那美尊イザナミノミコト・伊弉冉命)の三柱でした。(この3柱には黄泉の国で揉める伊弉諾と伊弉冉の仲を菊理媛尊が取り持つという有名な話がありますね。)

その後、6世紀中ごろに中国から仏教が伝来し、奈良時代には疫病等を納めるため鎮護国家思想が広まったこともあり、日本の古神道と仏教との信仰体系の融合、所謂、『神仏習合(※)』が進んでいきました。この白山にまつわる山岳信仰神仏習合の影響を受けています。

神仏習合:簡単に説明すると「神と仏は同じ存在」という考え方。

 

神仏習合の流れの中に山岳信仰と仏教(特に天台宗真言宗などの密教)が結びついてできた『修験道』と呼ばれる日本独自の宗教があります。これは霊山に入り修行を行うことで悟りを開き、山の霊力を吸収し人々を救済するといったものでした。その修行者を『修験者』といい、奈良時代にはこの修験者が霊山を開山(仏教寺院を開く)するようになっており、泰澄もこの修験者でした。泰澄によって白山が開山されたことで、古来よりあった白山の信仰と修験道が統一化され、『白山信仰』という新たな体系化された宗教へとなりました。

 

泰澄が開山にいたる際の伝承として、白山の主峰、御前峰に登って瞑想していた時に緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音垂迹(仏が仮の姿である日本の神に変えること)である九頭龍王(くずりゅうおう)が自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って現れたことが白山修験場創設の由来となっている、というものがあります。いやこれもうわけわかんねぇな。

神仏習合について補足すると、「仏が主体であり、神は仏が姿を変えた」とする『本地垂迹』という説が存在します。古神道には「ケガレを忌避する(物忌みなどを行う)」という思想がありましたが、「ケガレから根本的に離脱できる」という解決策を提示する『浄土思想』が仏教側から広がりました。浄土思想とは末法からの救済・極楽浄土への往生及び成仏を目的とした思想のことです。仏教は元々インドのヒンドゥー教を由来としており、インドの世界観では、末法の世の日本人は堕落し救済されがたく、正当な方法では救済できないとされていました。そこで、仏が神の姿を取り現れ、厳罰によって人々を導くことで救済を目指す、というのがこの本地垂迹説の意味するところとなります。これにより、仏教が古神道を吸収する形となり、神仏習合はこれまではただ「神と仏は同一の存在である」という概念だったものから、「仏は全能の存在である」という内容で理論化されるようになりました。鎌倉時代中期以降には、逆に「神が主体であり、仏は神が姿を変えた」とする『本地垂迹』が古神道側から出され、仏教から独立する動きが発達していきました。

 

おそらくですが、8世紀にはまだここまでの理論付けがなかったため、上記の伝承の中の神仏がごちゃごちゃしているのではないかと思います。

ついでに言うとある時期は、白山妙理菩薩は白山比咩神(菊理媛尊)とも同一視されていたため、白山比咩神は白山妙理菩薩でもあり伊弉冊尊でもあり菊理媛尊でもあるという存在になっていましたあぁ、もう無茶苦茶だよ。

原因は、本来「白山妙理菩薩≒伊弉冊尊≒白山比咩神」であったが、ある書物に記載された内容を読んだ人物が「菊理媛尊は白山妙理菩薩である(=白山比咩神でもある)」と誤認し、その異説が流布、同一性を獲得するに至ったようです。

 

ちなみに、仏が神の姿を借りて現れた姿のことを「○○権現」と言いますが、この「権」と言う字には「臨時の」や「仮の」といった意味があるそうですよ。

 

翌年718年に泰澄は御前峰にを築き、白山妙理大権現(白山明神・妙理大菩薩)を奉祀しました。

平安時代には、加賀(石川県)・越前(福井県)・美濃(岐阜県)に白山への「禅定道(山頂に上るまでの山道)」が設置され、「加賀の馬場(白山比咩神社)」、「越前の馬場(平泉寺白山神社」、「美乃の馬場(長滝白山神社」と呼ばれました。※括弧内は現在の名称。また「馬場(ばんば)」とは禅定道の起点場所。

そして834年にはそれぞれの馬場に白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立されました。※神宮寺とは、神仏習合が進んだ結果、その思想に基づき神社内に建てられたお寺のことで、神社とお寺の関係(例えばどちらが主体だったかなど)は様々でした。とは言え、神社ありきのお寺なので普通に考えれば、神社が主体なのは間違いないですね。逆にお寺が主体でそこに神社が建てられた場合、その神社のことは「鎮守社」と言います。

 

つまり、平泉寺(現名称:平泉寺白山神社)は越前側に開かれた白山信仰のための拠点寺院ということになります。

平安時代後期である1084年にこの平泉寺は延暦寺の末寺になり、霊応山平泉寺となりました。また、それに続くように他の寺院も延暦寺の勢力入りを果たし、それぞれ白山寺白山本宮、白山中宮長滝寺という名称になりました。そして、718年に御前峰に建てた社。これが白山頂上本社(現在は白山比咩神社奥宮)として扱われることになりました。

 

この霊応山平泉寺ですが、発展を続け室町時代後期の最盛期にはおおよそ1k㎡の土地に48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える要塞宗教都市とでも呼べるような勢力となっていました。

そして1543年には白山寺白山本宮が持っていた白山山頂の管理権や入山料の徴収などの利権を奪おうとしたことで、以後かなり長い間揉めることになります。(白山中宮長滝寺も巻き込まれて争っています。

結論から言えば、1743年に江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(白山中宮長滝寺)が管理すると決められ、平泉寺は白山頂上本社の祭祀権を獲得しました。やったね!

 

ただ、1574年に起きた越前一向一揆により全焼しており、10年後に一部再興されましたが、元の10分の1程度に過ぎなかったそうです。しかし、平成元年の1989年から始まった遺跡発掘調査により当時の境内の遺構がそのまま埋まっていたことが判明し、現在も発掘調査が進められています。ちなみに現時点で発掘できているのは全体の1%ほどだそうです。流石の広さとしかいいようがない。

 

その後、明治時代に入り明治維新の中で、1868年に神仏分離令が出されました。これは神仏習合を禁止し、神社(神、神道)と寺院(仏、仏教)をそれぞれ独立・分離させるものでした。明治政府は今までの江戸幕府のような武家政治から天皇を君主とした政治体制を実現させるため、神道を日本の国教としようとし神仏分離令を出すに至りました。

元々神仏分離には「神仏を区別する」という意味しか持ちませんでしたが、次第に拡大解釈され、「仏教排斥」の意味を持つようになりました。そして、長年仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆によって、寺院や仏像など仏教に関わるものを破壊し排除する「廃仏毀釈」の運動へと発展していきました。これにより歴史・文化的価値を持つものが多数失われたのは残念なことだと思います。

 

ただ、神道国教化の下準備として神仏分離を出しましたが、結果としては神道国教化は失敗しました。神道を国教とするために宣教をしなくてはいけませんでしたが、神道関係者は宣教経験が乏しかったため、仏教界の協力が必要不可欠でした。そのため政府機関に神仏共同布教体制が敷かれることとなりましたが、この共同体制も廃仏毀釈による関係悪化を受け廃止されました。

いろいろ考えてから政府が動かないのは今と大して変わらないな!

また神道国教化にはキリスト教排斥の目的もありましたが、こちらも西洋の国々からの信教の自由の保障を求められたことで、禁教令を廃止したことなどに伴い意味を失い、神道国教化の廃棄へと繋がっていきます。

 

とは言えこの神仏分離によって打撃を受けたのは何も仏教界だけでなく、修験道陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗が禁止されたことで、修験者・陰陽師世襲神職等の伝統的宗教者にも影響を与えました。

 

さて少し話がそれましたが、神仏分離の影響はここ白山にも影響を与えます。

修験道に基づく白山権現は廃社となり、寺号を捨て神社として生きていくことになりました。これにより現在全国の白山権現社の多くは、菊理媛尊を祭神とする神道白山神社となっています。白山寺白山本宮は白山比咩神社に、霊応山平泉寺も平泉寺白山神社に強制的に改組され、白山中宮長滝寺は廃寺こそ免れましたが、長滝白山神社天台宗の長瀧寺に強制的に分離させられました。また寺院関係の建物は解体され、仏像なども一部を残し破壊されてしまいました

余談ですが、その後、歴史史料が調査され3社の中で白山比咩神社が最も古いことが分かったため、全国の白山神社の総本社とされ、白山山頂は白山比咩神社境内となり奥宮が置かれました。主要な禅定道も白山比咩神社の管轄となり、江戸時代の判断とは逆転する形になりました。

 

さて長々歴史も交えて記載しましたが、最初の問いに対する回答はこのようになります。

Q.ここは寺院なのか、それとも神社なのか?

A.平泉寺白山神社は「神社」となります。

 

ここまでたどり着くのにほんと長かったですね。お疲れさまでした。

情報を整理してまとめて書くのは楽しかったので反省はしませんが。

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では、改めて平泉寺白山神社の紹介をしていきましょう。

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2枚前の画像の左側に行くとある「顕海寺」。一向一揆の後建てられたそうです。

ちなみに、ここの鳥居までの坂を『精進坂』と言うそうで、「菩提をもとめて煩悩を断じ身を清め心を慎む」という意味から名付けられたそうです。ちなみに昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていたそうですよ。

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鳥居の先はこんな感じになってます。

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平泉寺白山神社は梅雨から夏にかけて一面に見事な苔が見られることから「苔寺」と呼ばれています。苔寺と言えばもう一つ有名な京都のお寺「西芳寺」がありますが、アクセス的にも西芳寺の方が行きやすいとは思います。

井まで出る手段が面倒なのが悪いよ手段が~。

今回訪れた時期が7月の終わりで、理想的な時期からひと月ほど後ろにずれていたので、ピークは逃してしまっていましたが、名残は感じることができました。

(検索したらピーク時の画像が出るので気になった人は検索してほしいな)

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拝殿。一向一揆によって焼失した後、江戸時代に再建。

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中宮平泉寺」と書いてあります。

奥まで歩いていくと一際目立つものがあります。拝殿です。

拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩松平家の奉納品が多く、ほとんどが勝山市文化財に指定されているとのこと。焼失前の拝殿は京都の三十三間堂よりも大きかったそうですよ。あそこも中々でかいのにあれ以上あったのか・・・。

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本社。1795年に再建されたもの。

拝殿の後ろに回ると本社(本殿)があります。また本殿左側に別山社が、右側に越南知社(おおなむちしゃ、別名:大汝社)があります。この3社は白山を構成している3つの山を表しているそうです。また、本社の扉は33年に一度しか開けられず、次に扉が開けられるのは、2025年(平成37年)みたいです。

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本社から右手に進むとさらに奥へ行く道が現れる。

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三ノ宮。明治22年に改築されたもの。

写真の札にも書かれている通りここでは、栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)を祀っています。また、ここから先が白山へ上る禅定道ともなっています。流石に登山用具などもないし、午後に入ってからの登山などアホの極みなので、今回はここで引き返します。

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三ノ宮をバックに。

観光客の数はそこまで多くなく、木々に囲まれた場所なので、こちらも大変涼しかったです。また、かなり多くのひぐらしが生息しているようで、鳴く音が辺り一面に響いていました。覚えているくらい印象深かったということです。

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苔むした常夜灯。明かりがついたらどんな感じなのか正直気になる。

ここでの滞在時間は大体1時間くらいでした。1時間あれば十分だと思います。足りすぎて困るくらい。また、近くに小さいですが歴史資料館である「白山平泉寺歴史探遊館 まほろば」があるので、そちらも周られるとよいかと。

なんと入場料無料です。

www.city.katsuyama.fukui.jp

大体こんなことをして過ごして平泉寺白山神社を後にしました。

今度は石川県の白山比咩神社にも行ってみたいです。

 

そうして14:20発の電車でいったん福井駅まで戻ります。

次回は戻ったところから。

 

ここまでで漸く1日の2/3が終わったところなんだぜ?

どうしてこうなった。

どうしてこうなった。

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まだまだ現役な丸形ポスト君