しゅー太の奇譚回想記

興味の赴くままに、風のようにふらふらと

鉄道日本一周-<北陸編>⑨ 福島(会津若松)

気が付いたら前回の記事から、3か月くらい経ってる・・・。

バグかな?

記事書くのだけでこんな手こずるのに、動画とか編集している人はすごいなと感じる今日この頃。

10月にはGo To トラベルを利用して、名古屋~奈良辺りをプラプラしてきたから、書くネタが溜まり続けるアレ。

何とかしないと・・・。

 

[4日目:2018年7月31日(火)AM 7:30]

ちょっと早めにチェックアウトして、朝ごはんを食べられるところを探しつつ、鶴ヶ城へと向かう。

途中都合よく牛丼チェーン店を見つけたので、インして朝ごはんを済ませました。

お値段手ごろでそれなりに満足できるので助かります、ほんと。

体も小さい(160㎝くらいしかない)ので、まぁこれでも足りる。

身長小さくて個人的にあまり困ったことなかったけど、最近もう少しあればなぁって思うことが増えてきた。今更だけどね。

 

ゆっくり朝ごはんを食べて、再び鶴ヶ城へ前進。大体8:30手前には目的地へ到着。

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開城は8:30なので時間ぴったり。効率よく今日は動けそう。

鶴ヶ城

別名、若松城。その他にも会津(若松)城、(会津)黒川城などと呼ばれることも。

鶴ヶ城の始まりは、室町時代(さらに詳しく言うなら南北朝時代)に東北に領地を持っていた会津蘆名(あしな)氏が建てた東黒川館(小田垣の館)が前身であると言われています。

この蘆名氏、戦国時代には奥州の伊達氏と肩を並べるくらいの有力大名の一族となるのですが、その後、後継者問題や家臣の統制がうまくいかず次第に衰退。1656年に家系は断絶することが確定しました。

『館』とある通り最初に天守閣等はなかったのですが、遅くとも15世紀半ばまでには黒川城とその城下が完成したと考えられています。

その後しばらく蘆名氏の居城となっていましたが、安土桃山時代の1589年にそれまで幾度と戦いを繰り広げていた伊達政宗に攻め入られとうとう敗北。伊達氏に奪われた黒川城は翌年の1590年に豊臣秀吉の元へと渡りました。

 

 その後は、1592年に伊勢松坂(三重県)の領主である蒲生氏郷(がもううじさと)会津が与えられ、黒川城に入城しました。

蒲生氏郷は勇敢な武将で、また宗教や和歌などに理解のある文化人的側面も持つ文武両道な人物でした。とても優秀な人物でしたが、1595年の40歳という若さで亡くなりました。

さて、この氏郷が入城していた時期に何をしたかと言いますと、城の大改修を行い現在の姿に近いものとなりました。また、この改修を中心として城下町の建設を実施し、そして町の名前にもなっていた「黒川」の名を氏郷の出身地である「若松の森」にちなんで「若松」に改められました。城の名前に鶴ヶ城と名付けられたのもこの時期です。こんな感じで、この時期に大体今の会津若松の基盤になる形へと変形していきました。

 

氏郷没後は、子の秀行が後を継ぎましたが、お家騒動により下総国宇都宮へ転封(領地を移されること)し、秀吉の命で1598年に上杉景勝が越後から入封しました。

しかし、同年に豊臣秀吉が亡くなると徳川家康が台頭し始め、1600年に会津攻めを敢行。その背後から挟み撃ちにして家康を打ち取ろうとした石田三成が兵をあげ、世に有名な関ケ原の戦いが始まりました。結果はご存じの通り石田三成率いる西軍は敗北し、景勝は出羽国米沢へと転封させられてしまい、1601年に再び秀行が入城しました。

 

入城後、鶴ヶ城の整備や町方の振興に努めましたが、1611年に起きた会津地震により鶴ヶ城の石垣は崩れ、天守閣は傾き、山崩れで阿賀川がせき止められるなど大変な被害になあいました。この同年に正月には江戸屋敷(幕府から与えられた大名屋敷)が全焼、冬には干ばつの被害に遭うなど、会津にとって災厄の続く年となりました。こうした出来事から秀行は心労がたたり、1612年に30歳と言う若い年で亡くなりました。後を継いだのは秀行の嫡男である忠郷でしたが、当時わずか10歳であったため、お家騒動が絶えませんでした。そして、1627年に忠郷に嗣子がいないままこれまた25歳と言う若さで亡くなったため、秀行の次男の忠知が後嗣となり伊予国松山に移封され、代わりに松山より加藤嘉明(かとう よしあきら/ よしあき)が入封しました。

ちなみに忠知も30歳で後継ぎなく亡くなり、これをもって蒲生家は完全に断絶しました。

 

4代続いて若いうちに亡くなるなんて、ついてなさすぎるよなぁ・・・。

 

嘉明は会津に入った後、領内の整備に努めたり、村々の石高を調べて所領を確定するなどを含め、領内の経営に尽力しますが1631年に69歳で亡くなりました。その後は、子の明成が北と西にあった馬出をそれぞれ出丸(お城から離れた位置に作られる曲輪)にしたり、会津地震で壊れた天守を今に見られる形で改築したりしました。

 

ただ、こうした大改修は幕府が好むものではなかった(まぁ戦う力持たれても困るよね・・・。)ため、1643年に明成は改易させられ出羽国山形より、徳川家康の孫(ただし落胤)でもあった保科正之が入封し、以後明治維新まで会津松平氏(保科氏からの改名。正之の子である正容が三代目を継ぐと、幕府から松平の氏と葵の家紋を与えられ、正式に会津は徳川の親藩に組み込まれた。)の居城となり、9代に渡って藩政が行われました。

保科正之の主な実績の中には家綱の時代に、家綱の補佐に入り文治政治を推し進め、末期養子の禁の緩和殉死の禁止を実行しました。

文治政治武断政治(=武力を背景とした政治)を止めて、儒教朱子学)といった学問や教養を普及させ社会の安定を目指す政治。武断政治によってこの当時の社会秩序は最悪だった。

また、家訓15か条を定め、徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明確にし、何か決断する際はこれを拠り所として藩政の精神的な柱としました。

要するにめっちゃ凄いことやっためっちゃ凄い人ってこと(雑)

 

そして最終的に会津が全国的にも有名となった戊辰戦争が1868年に起こります。

戊辰戦争のきっかけを簡単に説明すると、武力による討幕を行いたかった西郷隆盛率いる薩摩藩でしたが、幕府は攻撃される前に大政奉還(権力を朝廷に返す)を行い、幕府をなくすことで攻撃されないようにしました。(賢いけど、「ぶっちゃけもうこうするしかなかった」みたいな所ある。)

攻撃する大義名分を失いましたが、なんとか戦争に持ち込みたい西郷。幕府側から攻撃を仕掛けてもらえるよう浪人使って挑発行為を実施しました。その挑発がエスカレートした結果、江戸城の二の丸が焼かれる事態にまで発展し、旧幕府側も我慢ができなくなり薩摩藩へ攻撃を開始。そしてこれが戊辰戦争の始まりとなりました。

 

結論から言えば、旧幕府軍側である鶴ヶ城は一か月間程度、新政府軍の攻撃に耐えましたが降伏します。この戦闘で多くの被害を受けた鶴ヶ城ですが、修復等はされずしばらく放置プレイをかまされ、1894年に解体されてしまいます。

今ある鶴ヶ城は再建されたものという訳ですね。

 

(雑にお城の写真垂れ流し)

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 綺麗な作りですよね。

お城の再建については、本丸は1960年に、天守は1965年に鉄筋コンクリート造で再建されました。

第二次世界大戦後には会津若松市が、戦後の非常事態とも言える財政難を解決するための手段として、本丸内に競輪場が設置されていたこともあるらしいです。

(場所も手段も選ばない、なりふり構わなさ大好き)

戦後復興策として自転車競技法という法律に基づくものらしいですね。

やはり世の中を救うのはギャンブル。お上も言うんだから間違いねぇ。

 

鶴ヶ城の中は、ご想像通り資料館となっています。

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申し訳程度の天守からの景色

行く時には利用しませんでしたが、勿論会津若松市にも周遊バスがあります。

大体30分周期で動いています。

ルート策定にどうぞ。

周遊バスには

・モダンなスタイルが特徴で赤と青の2車両ある「ハイカラさん」

会津地方が発祥の赤べこをイメージした真っ赤なボディが特徴の「あかべぇ

の2種類が存在します。

デザイン以外に違うところはどこなんだって言うと、会津若松駅を背にして右回りか左回りかどうかです。

右回りがあかべぇで、左回りがハイカラさんです。

鶴ヶ城に向かうならハイカラさんが便利です。

例にもれず1日フリー乗車券もあります。600円です。

2020/11/18現在、なんと今なら会津若松駅前にある「Terminal Cafe & Shop」にてフリー乗車券を提示することでドリンクやアイスクリームが20%オフになるみたいです。

お得ですね。

時刻やルートなど詳しくは下記リンクから。

www.aizubus.com

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鶴ヶ城を観光したら、次の目的地へハイカラさんを使って移動。

 2,30分揺られて飯森山下で下車します。

ここにあるのは白虎隊記念。入場料は大人400円。

割と小さい。

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館横の銅像


www.byakkokinen.com

白虎隊とは、戊辰戦争の一つである会津戦争において会津藩が組織した少年兵隊です。

部隊員の年齢は16~17歳程度で、幼少組として13歳の少年も参加していました。

新政府軍と交戦し、奮戦むなしく敗走。最後は飯森山まで逃げ延びたものの、深手を負ったこともあり、これ以上戦えないことを悟り集団自決を実行。一人を除き死亡するという凄惨な出来事がありました。

(この時、7人自決して6人死んだとする説と20人自決して19人死んだとする説があるみたいです。)

”悲劇の白虎隊”という認識で日本人の中に広がっているのではないでしょうか。

メディアでも時々取り上げられたり、学校の教科書の端くれに載っかっていることもあるので、「自決した少年兵」という知識は多くの人が持っているんじゃないですかね。

ちなみに、自決の際に守るべき鶴ヶ城周辺から上がる煙から陥落したと勘違いして自決したという話をよく聞くかとは思いますが、実はそうではなく「生き恥を晒すなら武士らしく死のう」となり自決に走ったみたいです。

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元々白虎隊は予備兵力で、会津藩が劣勢となる中で戦力投入されました。

ちなみに、察しがついている人もいるとは思いますが、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊があります。

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うおおおおおおおおおおお!ドラグーン!ドランザー!ドラシエル!ドライガー

それぞれ白虎隊を除くと、以下の通りの内容となります。

朱雀隊:18歳から35歳まで、隊員約1200名
青龍隊:36歳から49歳まで、隊員約900名

玄武隊:50歳から56歳まで、隊員約400名

つまり年齢によって部隊構成がなされているという訳ですね。

また隊員数も3桁で、そこそこいますね。

となると勿論白虎隊もそれなりの数で組織されている訳で、

白虎隊:16歳から17歳まで、隊員約300名

で組織されていました。

”悲劇の白虎隊”ばかりがクローズアップされますが、あれはほんの一部のことだということなんです。

まぁ、改めて考えると予備兵とは言え戦争にあたる部隊だし、これだけいるのが当たり前だけど、これだけ多くの若者が戦いに出ていたという。

そして、敵である新政府軍は最新鋭の武器を持ち、人・物資共に物量も豊富。

それに比べ、旧幕府側はじり貧

しかも白虎隊が持たされていた武器は「まぁ、火縄銃よりはマシかな」レベル。

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手札には無限の可能性が秘められているぜ!城之内君!(大嘘)

また、戦士や自決をしなかった約290名に関しては、明治維新後まで生き延びました。

言うて明治維新自体が大政奉還(1867年)後の明治初期を指すのでそんな長生きはしてない。

そんな白虎隊に所縁のある品々や歴史がまとめられているのがこの白虎隊記念館なのです。

そして、ここの最寄のバス停の名前は飯森山下でした。

そうこの白虎隊記念館の裏手が件の飯森山になります。

そのため、ここには白虎隊を弔うための慰霊碑などもあります。

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また、ここには円通三匝堂(えんつうさんそうどう)、通称さざえ堂があります。

西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂で、その形が貝のさざえに似ていることからさざえ堂と呼ばれています。

この建物の唯一無二の特徴がその構造で、階層の移動は螺旋通路によって移動するのですが、なんと上りと下りで同じ道を通らない一方通行の道となっています。

意味わかんないですね。

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頭の方が途切れているセンスのなさ

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側面。螺旋階層がよくわかる。

入場料は400円。正直ぼってると思いました。

諸々観光して大体30分くらい、1時間あれば余裕を持ちつつ見終わることのできる場所だと思います。(電車の時間見間違えたので駆け足になったのは内緒。)

 

急いでバス停まで向かって会津若松駅まで向かう。

このまま新潟駅までいったん引き返します。

今回もお世話になるのはハイカラさん。

結局あかべぇには一回も乗車しなかったな・・・。

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あいるびーばっく

今回は会津若松だけの観光でしたが、ここを拠点にして東側に猪苗代湖五色沼裏磐梯、南側にネギそばで有名な大内宿があるので、是非観光しに福島まで足を運んでみてください。楽しいですよ。

 

区切りもいいので今回はここまで。

前回の予測ははずれ、次回でこの北陸編も終わり(にしたい)。

年内で完結できるといいなぁ。

気持ち次第。

 

withコロナ、ニューノーマル、3蜜、小5etc

その他いろいろな言葉や定義が生まれていますが、各々やれることやって、

(まだまだ先は長そうと思いますが)ストレスを貯め過ぎないよう頑張りましょう。

 

正直コロナ止めるのは無理だと思うんだ(大声)

鉄道日本一周-<北陸編>⑧ 新潟

こんにちは。

あちこちで気温が爆上がりして、40℃を超えるのがデフォルトになりつつある日本にビビるしゅー太です。

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特に浜松が。

最近の気象情報見ると、画面が真っ赤っか。
30℃前後で「今日は涼しい方なんだな」と考えるくらいには毎日が暑い。

北海道で夏だけ暮らしてぇよぉ。セカンドハウス持つ余裕なんてないけど。

仕事もあるし。悲しいね・・・バナージ・・・。

 

今回は直江津で一晩明かした後から。

直江津は特に観光しません。通過点さ。

それとここからまた18きっぷが使えます。やったね。

 

[3日目:2018年7月30日(月)AM 7:00]

今日は少し早めに出発。

目的地は弥彦駅で、乗り継ぎ含めてここから3時間程度かかるので、

朝はマクドナルドで軽く済ませて、早々に行動開始。

朝マック食べたい気分だったから探したけど、地方って地味に離れた場所にマックとかがあるから、向かうのに謎に時間をかけてしまったのは内緒。

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懐かしさから思わず写真を撮った。

地方だと割かしよく会うことも多い115系と呼ばれる車型。

この配色は「湘南色」と言われるカラーだそうです。

幼少期に中国地方に住んでいた頃、よくこの色の列車に乗っていたのですが、小学校に上がる際に上京したので、見たのはそれっきりでした。

まさか、こんなところでまた乗車できるとは・・・。

僕の中では未だに列車と言えば「これ」なんです。

実に約20年ぶりの再会(?)です。感動さえ覚えました。

朝からラッキーだったな。

 

直江津を出発した後は、長岡・東三条駅を経由しながら弥彦駅へ。

長岡は花火で有名だから、いつか見に行きたいですね。

1人はさみしいけどね。

行く最中驚いたことがあって、途中乗り継いだ車両、なんと液晶モニタ付き

バカにしてるわけじゃないんだけど、地方でも既に導入されているとは想像していなかった・・・。

地方路線って財政厳しいイメージあるから、新型の導入って中々見ないんですよね。

ちょうどタイミングが合致してたのかな?

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綺麗な車内だ。東京と変わらない。

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また、東三条駅弥彦線に乗り換え。終点まで向かう。

午前10時半頃、弥彦駅へ到着。

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朱色が映えていていいですねぇ!

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全体像はこんな感じ

片瀬江ノ島駅にカラーリングが似ている。

まぁ、あちらは竜宮城イメージだったはずなので、モチーフは全く異なるけど。

 

とりあえず着いたわけですが、ここでの向かう先は弥彦神社になります。

まぁ多分ここに来る目的は大体ここしかない気もしますが。

駅から弥彦神社までの距離は大体1kmくらい。

とは言え、夏真っただ中で太陽も厳しい。

できれば交通機関で移動したいですが、なんと弥彦神社まではバスがでていません

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ふざけるな!ふざけるな!馬鹿野郎ォ!!あああああああああ!!!!!

タクシー・・・もなしではありませんが、微妙な距離。

しかも観光案内所に該当する施設が駅から微妙に離れたところ(しかも弥彦神社までの道中)にあるときた。

歩くしかないか。(位置的にはここ)

方針を決めて弥彦神社へと文字通り歩みを進めます。

道のりは1kmくらいですが、他に何が嫌かって基本登り坂であること。

無駄に体力も削れてげんなり。

まぁ、観光客がそんな来る場所でもなさそうですし仕方ないですね(失礼)。

 

観光案内所に寄ったり、そのななめ向かいにある「おもてなし広場」という道の駅チックな場所に寄り道をしながら15分位歩いて弥彦神社に到着!

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立派な鳥居がお出迎え。

正式名所、「彌彦神社(いやひこじんじゃ)

弥彦山をご神体としその山麓にこの神社はあります。また、古くから「いやひこじんじゃ」と呼ばれていますが、ご神体の弥彦山を含め関係する地名が「やひこ」と読むため、一般には「やひこじんじゃ」と呼ばれています。

かの有名な「万葉集」にも彌彦神社が詠われた歌が2種も掲載されています。

 

祭神として「天香山命(あめのかごやまのみこと)」が祀られており、地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」等とも。

天香山命古事記に登場する「高倉下(たかくらじ)」と同一存在とされ、天照大御神の曾孫に該当します。

神武天皇即位四年(西暦紀元前657年)に、日本の初代天皇である神武天皇から越後国開拓の詔を受け、現在の長岡市野積の浜に上陸しました。そして当時の地元住民に漁業・製塩・酒造などの産業技術を教え、後に越後を造った神様として崇拝されることになります。

神武天皇を救ったエピソードもあるけど、気になった人はリンク先みてね→こちら

 

弥彦神社は、社伝によると第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に天香山命が越後を平定・開拓し終わり、亡くなった際に弥彦山に廟社を築き祀ったのが始まりとされいます。

その後、紀元前97~30年に建諸隅命(たけもろすみのみこと)が天皇の勅命を受けて社殿を造営。711年には勅命により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられています。

上記のように具体的な創建年代は不明ですが、少なくとも2400年以上という、えげつない歴史を持った神社となります。

 

弥彦神社が初めて国史に現れるのは、『続日本後紀(しょくにほんこうき)(※1)』で

「越後國蒲原郡伊夜比古神 名神に預かる 彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり」

という記述があります。

(※1)六国史の一つ。飛鳥時代から平安時代前期にかけて行われた国家事業による日本の歴史書の編纂で、6つあるため六国史と呼ばれる。続日本後紀はその4つ目にあたり、全20巻ある。上記の記述は第2巻から。仁明天皇の代である833年から850年までの18年を扱っており、この時代の目立った出来事としては承和の変があった。

 

鎌倉時代には源頼朝が三千貫の社領を寄進したり、室町時代では後醍醐天皇が「正宮位大明神」と書いた勅額を奉納されるなど、かなり有名な大社として存在していました。

かなり繁栄していましたが、応仁の乱の影響によって社殿や多くの記録・宝物が焼失、社領も押収されてしまい衰退します

 

江戸時代に入ると歴代徳川将軍からの支援による領土の安堵、1702年には社殿の修繕もされ、復興します。

また、1692年に当時の神主であった高橋左近光頼は、仏教化された神社の在り方をよしとせず、社僧・供僧を追放するなど神社内の仏教色を一掃する神仏分離を断行しました。結果としてこの試みは失敗しますが、明治維新時に実行された神仏分離を早期に行っていた神社でもありました。

 

その後も火事にあって再建されたり、上越新幹線開通を記念して鳥居が建てられたりと、2400年前から現在至るまで大切にされている神社となります。

 

では参拝していきましょう。

鳥居をくぐって真っ直ぐ歩くのですが、拝殿に向かうためには途中左折する必要があります。まぁ、曲がる場所は初めの十字路になるので迷うことはないでしょう。

左手に鳥居も見えるので。

境内はこんな感じに両側に杉の木が植えられてます。

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いい清涼感だ。

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はーいでんまえ(隋神門)

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とーちゃく!

渋みのあるスタイルで、かなり好みですね。

屋根の角度とか・・・いいよね・・・(謎フェチ)

どちらかと言うと江戸時代の役所を連想します。

目立つ派手さはありませんが、存在感は半端ありません。

お参りも済ませましょう。

こういう旅に出てるときって適切かはわかりませんが、どこの神社でも

「無事にこの旅が終わりますように」

と願掛けしてしまいますが、同じような人いるんですかね。

 

お参りした後は周っていない境内を観光。

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神馬舎の中

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鹿の他にもいろんな種類の鶏とかいました。

ぶらぶら歩いて適度なところで観光を切り上げ駅前に戻る。

列車の時間を考慮しながら動く必要があるのがネックですが、勝手に運んでくれるこの手段の魅力にはあらがえないですね。

弥彦駅前には11半頃に帰還。時間にして1時間くらい、弥彦神社での滞在時間はもっと少ないですね。

 

11時50分頃の列車で次の目的地へ出発。

行き先は新潟駅です。途中吉田駅で乗り換えて、新潟を目指します。

到着時間は13時前なのでお昼を食べるにはいい時間に着きそう!

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なんて思っていたのですが、暇つぶしのためにやっていた携帯ゲームに夢中になりすぎて吉田駅をスルーしてしまうゴミっぷり。

(旅)やる気あんの???

気が付いたのがしばらくたってからで割と焦る。

ちょうど大きめの駅である東三条駅に到着したので、いったん降りてリカバリー案を探すことにしたものの、残念ながら見つからず。

相変わらずのアホっぷりですね!

とりあえず、いったん東三条駅まででて、新潟を目指すルートを選択。

到着が1時間ほどずれ込む見込みとなりました。

 

まぁ・・・お昼が遅くなるだけだし。

この後の予定特に決めてなかったからノーダメだし。

旅にトラブルは付き物だからね!

などと全力で言い訳を並べて、ミスを宇宙の彼方まで吹っ飛ばす。

 

その後は今後の予定を立てながら時間を潰して、列車を待ち、

時間になったら今度はゲームはせず新潟まで乗車。

14時には新潟駅に無事到着しました。

反省は活かす男、しゅー太。

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意外と大きかったんですね。

とりあえず新潟に来たらしたかったことが二つ。

まず一つ目がこれ。

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待ってたぜ、この時をよォ!

新潟駅から直結しているビル、CoCoLo新潟の西館にある「ぽんしゅ館 新潟驛店

www.ponshukan.com

こちらでは500円で新潟にある様々な日本酒の飲み比べができます!

500円を払うと専用のコイン5枚が渡され、コインを専用の投入口に入れるとおちょこ一杯分の日本酒へと変換することができます。

その種類はおおよそ100種類ほど(しかし全部が稼働中という訳ではない)。

またお酒ごとに甘さや辛さ、度数の他おススメポイントや生産地なども書かれており、選ぶ指標として役立てることができます。人気ランキングもあるよ。

さらに、塩やみそなどのも無料で置いてあり、それらと合わせて楽しむことができます。別途きゅうりの一本漬けなども販売してありますよ。

日本酒が好きなら、ぜひここに立ち寄ってほしい場所になります。

 

ん?なんでこんなに説明があって写真がないかって?

日本酒に夢中になりすぎて忘れてたんだよ。

ちなみに切れのある辛口が好きなので、基本はそれ系統のものばかり選んでました。

 

もう一つのやりたいことはこちら。

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バスセンターのカレー!

新潟の「バスセンターのカレー」で有名な万代そばさんのカレーです。

万代シティバスセンターの一階に位置している立ち食いのお店となります。

現在はバスセンターの区画工事の影響で、店舗の場所を移動して営業されているみたいです(2020年8月22日現在)。

www.silverhotel.co.jp

ここの名物はなんといってもカレー!

テレビでも取り上げられることもあるほど有名です。

ちょうど旅に出る前にテレビでやっているのを見て、「行ったらせっかくだし食べるかぁ」とミーハー丸出しですが食べに来た次第です。

その人気からかレトルト版まで製品化されており、店頭で購入することが可能となっています。

食べている間にも買いに来ているお客さんがいらっしゃいました。

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実物がこれ。

食べてみた感想ですが、まぁまず量が多い

それなりどころか、かなり満腹になりました。

特徴的だったのが玉ねぎで、かなり食べ応えがありました。

溶かすのではなくそのまま食材としてあてがっているみたいですね。

それから、辛さ

マイルドな見た目からは想像できないくらいには辛いです。

激辛というわけでは全くありませんが、スパイスが効いていて、汗が止まらなかったです。コクもあって、大変美味でした。

新潟に来たらまた食べに来たいですね。

 

万代シティバスセンターは新潟駅から歩いて10分くらいの場所にあります。

地図はこっち。9月中旬くらいまでは、上記に書いた通り別の場所で臨時営業しているようなので、お間違えの無いよう。

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外観

 

食べ終わって15時くらい。

その後は駅に戻って職場や家族用のお土産を探す時間に充てる。

自分用にはぽんしゅ館でおかきを買いました。

 

そして、ここまでは事前に決めていたルートだったので、ここから先はノープラン。

時間が空いてるときにずっと考えていましたが、余裕もあるのでいったん福島の会津若松に出ることにしました。

以前に東北一周した際は、タイミングの都合で行くことができなかったので、ここは行っておくべきだろうということで一度内陸へ向かいます。

15:45にはホームへ。

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さぁ、参りましょう

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綺麗な田んぼ道が続く。

途中乗り換えを挟みつつも電車に乗ることおおよそ3時間。

ようやく会津若松駅へ到着。

地理的な距離で見たらそんなに離れてないんだけどね・・・。

速度とそれから線路が単線なこともあって待ち合わせも含めたらこんなもんって感じ。

一番怖かったのは、事故か何かで止まること。

田舎、しかも山の中だとどうあがいてもリカバリー不可かつ致命傷になりかねないので、ずっとお祈りタイムでした。

まーじで恐怖しかない。

リミットある旅でしかも後半戦だとリスクが高くなりすぎる・・・。

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会津若松駅

今日は朝早くから動いたので、宿に一直線。

途中コンビニで晩御飯を買ってチェックイン。

会津若松では鶴ヶ城会津若松城)と白虎隊記念館へ向かいます。

今日はとっても楽しかったね。

明日はもっと楽しくなるよ。ね、しゅー太(郎)!(某ロコちゃん風ボイス)

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広いけどさぁ!

通されたお部屋はツインのお部屋。

1人旅にはもったいないくらいきれいで快適なお部屋でした!

そしてこの部屋の広さ分の寂しさが体に染みわたる・・・。

ツインの方がメイキングしやすいって聞いたことあるから仕方ないね。

 

さてさて次回の更新はいつになることやら。

北陸編はあとまとめ入れて3回くらいと見た。

続く。

鉄道日本一周-<北陸編>⑦ 富山(瑞龍寺・雨晴海岸)

こんにちは、しゅー太です。

go to キャンペーンが7/22(水)にとうとうスタートしましたね。

やるからにはいい結果が返ってきてほしいものです。

そしてもう8月・・・。早すぎるよ・・・。

 

さっそく前回の続きからスタート。

 

[2日目:2018年7月29日(日)PM 15:45くらい]

高岡駅で電車を降りて、目的地へ向けて歩き出す。

結局、瑞龍寺と高岡大仏のどちらにしたのかと言うと、瑞龍寺にしました。

大仏だと大仏見て「はい、終わり!」となりかねなかった。

中もいろいろ見れる瑞龍寺の方が楽しそうだなと思ったので、こちらへ行きます。

大仏はまた今度。

 

瑞龍寺までは駅から歩いて20分くらい。(意外と距離があった。)

いくつか信号を渡って、右へ左へ曲がりながら到着。

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入口

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正面。ここから料金が必要。画面左後方に受付がある。

瑞龍寺は、江戸時代初期に加賀前田家3代目当主である前田利常(としつね)が、2代目当主の前田利長を弔うために建てた菩提寺です。形式は伽藍配置で、総門・山門・仏殿・法堂が一直線上に並ぶようにして建築されています。

伽藍配置と言えば、初期は重要視されていた仏塔(仏舎利を祀る建物)が、年を経るにつれて段々と外側へ配置され始め、最後にはとうとう門や回廊の外に追いやられていくというのが面白いですね。

 

仏舎利(釈迦の遺骨)よりも、本尊が祀られている本堂の方へ中心性、信仰の対象が移っていった結果という訳ですね。元々初期の仏教では、教え自体を崇めて像を作ることはなかったので、仏舎利が唯一形をもった信仰対象でした。しかし、6世紀半ば(『上宮聖徳法王帝説』では538年、『日本書紀』では552年とも言われている。)に日本へ仏教が伝来した際には仏像も合わせて伝来したため、寺院において必ずしも仏舎利や仏塔が信仰の対象ではなくなっており、仏像の方へ信仰がシフトしたという訳です。仏塔は時代とともに、信仰のシンボルから寺院のシンボル≒飾りにまで落とし込まれていきます。なので、寺院を訪れた際に仏塔がどの位置にあるかで、時代や信仰対象をざっくり判別できるようになるので、そういった点に着目して観光するのもひとつの楽しみ方だと思います。

 

また、瑞龍寺曹洞宗の寺院で近世禅宗様式で建築されており、その代表作として山門・仏殿・本堂が1997年に国宝として登録されました。富山県初の国宝にして、現在でも唯一の富山県の国宝となります。(実際「国宝」と言う言葉に惹かれてここに来た感は否めない。)

 禅宗が伝来したのは鎌倉時代で、その際に再び整然とした伽藍配置が行われるようになりました。(平安時代に入ってから密教などの山岳寺院では敷地の制約上、整然とした伽藍配置は見られなくなった。)また、禅宗寺院では塔を建てることはほとんどなく、建てられたとしても伽藍配置の一部としての機能は持っていないようでした。

(なんで禅宗寺院だと塔がないのか調べたけど「なぜ」の答えが出てこなかった・・・。誰か教えてください・・・。まぁ単純に禅宗がひたすら座禅による瞑想による悟りを目指す宗教で、あんまり塔とか関係ないからなんだろうなぁ・・・。)

  

そのため、瑞龍寺は直線上で建築物が並んでいるかつ塔がない寺院になります。

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ちなみに瑞龍寺の伽藍は仏様の体を型取っています。

 

 股間から入るなんてえっちだ・・・

では、いざ参りましょう。

正直ここへ行くなら晴れの日をオススメします。

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山門。作りが凝ってますね。

山門は1746年の火災で一度焼失しており1818年に再興する際、両脇に設置されている金剛力士像は作成されたと言われています。その後たびたび修復されています。

金剛力士像は二体で一対として扱われ、寺院の表門に配置されることが多いです。

仁王の名前でも呼ばれています。サンスクリット語でヴァジュラパーニとも。

金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」と言う意味らしいです。

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口を閉じている方が金剛力士像・吽形

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口が開いていれば金剛力士像・阿形

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山門を抜けるとこんな感じ。

逆光の関係でこの向きでの写真はあんまり取れなかったのが残念。

正面が本堂です。

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本堂から見た山門。空と合わさっていい絵だと思う。

進路は右なので、右手から回廊へと向かう。

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回廊の中はこんな感じ。通路は土というか地面だった。

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右手から本堂。ほんと芝が気持ちよさそう。

 

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大庫裏。めちゃくちゃ広いな。

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ほうどー

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左回廊側からの法堂

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石廟

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本堂と山門。この角度が好き。

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法堂側から見た本堂です。

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本堂の中

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謎の魚が回廊に吊るされていた・・・。

これは「魚板(ぎょばん)」と呼ばれるもので、これを叩くことで、時間や行事を知らせ人を集めたりするのに使われていたそうです。

魚の形をしているのは、魚は昼夜問わず目を開けているところから常に修行に精進するようにと言う意味が込められているとのこと。木魚はこれが原型みたいですね。
「魚梆(ぎょほう)」「魚鼓(ぎょこ・ぎょく)」という呼び名もあります。

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東司(とうす)とは寺院におけるトイレのことです。東司と呼ぶのは曹洞宗
で、臨済宗では雪隠(せっちん)といいます。

この東司には、不浄を清める烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が祀られます。

つまりトイレの神様という訳ですね。

2010年に植村花菜さんが発表した「トイレの神様」がヒットした際に烏枢沙摩明王も少し取り上げられたりしたので、それで知った方も多いのではないでしょうか。

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最後に鬼瓦を見て終了。
これは山門の外にあります。
ちなみにここは春に期間限定で夜間ライトアップをしているそうです。
2020年はコロナの影響で中止になりましたが、夏の8月8日(土)~10日(月・祝)で開催予定となったそうです。詳しくは↓

info-toyama.com

 

 瑞龍寺の観光を終えて、外へ出ると、なんと次の列車の時間まであと10分。

数少ない体力を振り絞って駅まで全力ダッシュ

息も絶え絶えになりながら、なんとか列車が出る前に高岡駅までたどり着く。

瑞龍寺から走りっぱなしだったから、いろいろ限界・・・。

なんでここまで頑張ったかと言うと、次に行こうと考えていた場所が、暗くなってからでは意味がないから。

 

その場所は海岸

読みは「あまはらし」。

日本海越しに標高3000mを超える山々からなる立山連峰を望むことができ、年始には初日の出を拝みに来る人も数多くいるそうです。

雨晴の由来は、その昔源義経が奥州へ落ち延びる際に、にわか雨が上がるのを待ったと言われる「義経岩」があることからその名前が付いたそうです。

四季折々でそれぞれ異なった顔を見せ、その美しさから多くの人々を魅了してきました。奈良時代の「万葉の歌人」としても知られる大伴家持は、ここを題材として数多くの歌を詠んでいます。

またこの「海越しに3000m越えの山々を望める」場所というのは、世界で唯一この雨晴海岸のみなのではないかとも言われています。

確かに海越しで山を見ることって考えてみると中々なさそうですよね。

そんな場所なので、ここはぜひ押さえておかなくては。日が暮れて見えなくなる前に。

ということで、向かっている訳です。

 

高岡駅から雨晴海岸の最寄り駅である雨晴駅まで20分ほどで到着します。

ちなみに、高岡駅から雨晴駅区間はJRです。なので18きっぷが使えます。

流石に勿体ないので使いませんでしたが。

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いい雰囲気の駅だ。

駅を出て右に進んでいくとこじんまりとした踏切が見えるので、それを渡って海側へ出る。

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ここを抜けたらもうすぐそこが海です。

ネットでよく見る角度のスポットに行くには端に行く必要があるので、渡った後で右に曲がり直進します。

道中も写真に収めておけばよかった。

途中日本人じゃない、多分アジア系のご家族と思しき人たちが、音楽流しながらシート広げて花見ならぬ海見?を大人数でやってたので、この辺はアジア系の方が住んでる割合が多いのかもしれないですね。ばりこの辺に住んでますって感じの緩さだったんで。

そんなこんなで5分位歩いて端まで到着しました。

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山頂に雲がかかっててちょっと残念ですね。

でもなるべく自分が納得する写真を一つ撮りたかったので、少し時間を使う。

先に来ていたお兄さんにいい場所を抑えられていたので、我慢して別の場所へ。

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波の画を入れようとするとどうしても手前の流木が写らざるを得なかったのでこれが限界でした。まぁ、仕方ないですね。

でも、実際に来れてよかったです。ここまで来ないと見れない景色を自分の目で見ることが出来たというのが一番の収穫です。

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少し早めに駅に戻ったけどすることなかったので、適当に時間を潰す。

お店はなく、自販機があるくらいの駅なのです。

いや、駅前に小さい商店くらいならあった気がします。。。

 

大体いたのは30分くらいでした。

この後は、富山駅へ向かいます。

ぶっちゃけノープランなので、そこで少し休憩しながらこの先のことを考えます。

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電車も来たので乗って向かいます。

待ってる間ずっと韓国人か中国人のカップルor兄弟がガチ喧嘩してるのはキツかった。

1時間ちょっと乗って富山へ到着。

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駅舎。

富山駅の中に直接路面電車の駅があって、すごくオシャレでした。

車体もかっこよくてびっくり。

環状線らしいので、あれでぶらぶらするのも楽しいだろうなぁ。

いつかやりたい。乗ってないけどリンク。

www.chitetsu.co.jp

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富山でさえ自動改札(ICカード専用だけど)が導入されてるのに福井さぁ・・・

さて、今後の方針としてはここで一泊していくか、

明日に向けて北上するかの2択でした。

できれば、黒部ダムあたりも見たいよなぁなんて思っていましたが、調べてみると富山から行くより長野から行った方が近いし安い。というわけで没。

向かい辛過ぎる黒部ダム側に責任がある。

となると、「一泊してまで見たいものがあるか」という観点になる訳ですが、正直今個人的に気になるものはないので、進めるところまで進むことにしました。

時間的に新潟の直江津までは向かえるので、そこまで進んで一泊することに。

直江津へは上の写真にもある「あいの風とやま鉄道」を使用します。

ainokaze.co.jp

泊(とまり)駅というところで乗り換える必要があります。

運賃は2400円ちょっとでした。

富山駅を19時過ぎに出発して、乗車時間は2時間と少し。

最初の小田原‐大垣間のムーンライトながらを除けば、この旅一番長い乗車時間だったかもしれません。

地方+遅い時間と言うことも相まって、乗客はほとんどいませんでした。

確か、他に一人くらい。

ほぼ貸し切りみたいで逆にテンションが上がりました笑

そして21時半前に直江津駅へ到着です。

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それなりに大きかったけど、思っていたよりは小さかった。

ここからなら頑張れば佐渡へ向かえますが、今回はスルー。

この後もギリギリまで考えていましたが、料金もさることながらフェリーの移動時間がかかりすぎるので、遊びに行くのはまた今度ということで・・・。

いつかは行きたいですね。

ここから歩いて15分くらいの場所にホテルを取ったので、そこまで歩きます。

途中不思議な音が聞こえてくる。

恐る恐る音のなる方へ向かうと音の正体はなんとお囃子の音でした!

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お神輿だ!

どうやら、小さいお神輿を担いで町内を練り歩いていたみたいですね。しばらく眺めていましたが、最後は公園のようなところに入って見えなくなってしまいました。

お祭りなんて最後に参加したのはいつだったけな・・・なんて遠い目をして、振り返りながら本日宿泊するホテルへチェックイン。

 

明日はどんな出会いがあるのかとワクワクしながらこの日は就寝。

 

次は、新潟の弥彦神社へと向かいます。

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今までで見た中で一番好きな空。富山で出会えるとは思いもしなかった。

鉄道日本一周-<北陸編>⑥ 福井(一乗谷)、そして富山へ

こんにちは、10万円給付金の申請書が届かないしゅー太です。

任天堂switchでゼノブレイドやってるけど、面白いっすね。

昔やりたくてもできなかったので、今できて素直に嬉しいです。

switchがリングフィットアドベンチャー専用運動器具にならなくて良かった。

 

今回の記事前半分が一乗谷後半戦。

あとは富山へ移動するところ。

 

[2日目:2018年7月29日(日)AM 10:50]

朝倉氏遺跡を後にしてシャトルバスで向かったのは、朝倉資料館。

asakura-museum.pref.fukui.lg.jp

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こちらでは、発掘調査などで出土した国指定重要文化財を含む約500点もの出土資料が展示されています。とは言え、割とこじんまりとしているため、見て回るのに時間がかかるということはありません。30分あれば、ざっと見終わることができます。

以下、展示内容の例。

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以前話に出した朝倉駒の一つ。

朝倉駒とはここ一乗谷で出土した古いタイプの将棋の駒で、この『酔象』は「後ろ以外の全方向に1マス」に動くことができ、裏面に書かれている『太子』に成ると「全方向に1マス」動くことができます。マジ万能。

この『酔象』は読んで字の如く「酔っぱらった象」という意味または「発情して凶暴化したオスの象」と言う意味だそうです。仏教では凶悪な心のたとえに用いられる語とのことらしいですが、将棋に採用された理由も不明らしい。

この『酔象』を採用してここ福井で指された将棋を「朝倉象棋(小将棋の派生)」と呼びます。

※小将棋=今よく知られている将棋に『酔象』の駒を加え、取った相手の駒を持ち駒としない将棋

※朝倉象棋=再使用できない駒を『王将』と『酔象』に限定したもの。

 

他には・・・

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※行火=こたつ

こんなのとかあります。

あとは、日用品や当時この辺りに数多くあった

寺院の宗教品なども多く出土されています。

周るのに時間はかかりませんが、見どころは沢山あるので、時間があればぜひ寄ってみてください。

 

 30分くらいで見終わったので、シャトルバスのタイミングもいいことから、

一乗谷あさくら水の駅」へ向かってみることにしました。

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画像は「道の駅 公式ホームページ」様より。正面写真撮り忘れた。

ここは、2010年に農業体験施設として始まり、2015年に「道の駅」としてリニューアルされました。

ここは5月頃のシーズンになるとホタルが見られるそうですよ。

確かに近くにきれいな川があり、雰囲気も合わさってホタルが似合う場所でした。

 

シャトルバスの運ちゃんから「買い物してすぐ戻ってくるなら待ってるけどどうする?」と聞かれましたが、少しダラダラするつもりだったので、お気持ちだけいただいて辞退しました。

・・・買い物して戻ってくるまで待つことができるということは、やっぱり普段からあんまり人が乗らないんだろうか。。。 

 

 とりあえず中に入っていろいろ物色。

こういう所って大抵ご当地サイダーみたいな飲み物があるからそれを探してみる。

すると・・・。

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あったよご当地飲料!

でかした!

その名も「一乗谷ジンジャーエール」!

地元で採れた生姜を使用しているジンジャエールとのこと。

暑かったので、休憩も兼ねて迷わず購入。

 

外に屋根付きベンチがあったので、そちらに移動してさっそく開封

小気味良い音と共にキャップが外れる。

それでは、いざ実飲。

 

おぉ!甘くない!

コンビニなんかで市販されているジンジャエールは「THE・ジュース」と言った感じで甘さバリバリですが、これはガチもんのジンジャエールでした。

ほのかな辛さを感じさせながらも飲みやすいお味。

これはおいしい。

味わうようにゆっくり飲んだつもりでしたが、あっという間に飲み干してしまいました。

甘いのは苦手という訳ではありませんが、控えめな方が好みなので、個人的には大変嬉しかったです。

これを飲めただけでも一乗谷に来た甲斐があったというもの。

ごちそうさまでした。

 

飲み終わった後も暫く涼む。

帰りの時間まではもう少し時間があるのでゆっくりしてました。

 

20分しないくらい休んだら、駅に向けて歩いて向かいます。

途中適当に写真を。

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休憩してた場所から。高い建物がないので空が何処までも広い。

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反対側も

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道の駅近くの水門。形が土地柄を意識していていいですね。景色と合わさって良き。

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ゆったり散策するなら好きな場所かもしれない。

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ミニチュアモードでの撮影。面白くて、しばらくこれで遊んでました。

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ほんとにおもちゃで撮っているみたいだ。

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とかしながら、時間を潰して電車が来るまで有意義に過ごす。

一乗谷の感想というか印象は「みんながイメージするまんまの田舎」「夏休みに帰ってきたい」って感じでした。

辺り一面9割緑でなんもないですが、時間がゆったり流れているというか、他に言い表しようがないほど長閑な場所でした。

日本には他にも似たような場所はまだまだあるだろうから、ぜひそういう所もめぐっていきたいという所感。

 

その後、12:00過ぎの列車に乗り20分ほどで福井駅へ帰還。

次の移動に入るとお昼を取るタイミングを逃しそうなので、ここらでご飯の時間。

お昼時だから混んでないところへ。

和食しゃぶしゃぶ おめでたい | フロアマップ | 「ハピリン」

まぁよくあるお食事処。

中々に暑かったのと、さっぱりしたい気分でもあったのでおそばを注文。

注文したのは、福井名物の越前そば。

強力粉を繋ぎとした蕎麦に大根おろしを乗せて出汁をかけたり(ぶっかけ)、大根おろしに出汁を加えてつけツユにして食べる(つけそば)など、大根おろしを利用することから、「おろしそば」とも呼ばれる。(Wikipedia参照)

とりあえず、”名物と言われているものなら旅先の飯としては無難でしょ”感の出るチョイスに安直さがにじみ出ている。

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量が少ないよ量がぁ

これでなんとお値段約900円!!!

まぁ、商業施設に入っている飯屋の値段としては適正だとは思うけど、これなら同じ建物に入っているバーガーキングで同じ値段出した方が、満足できたなとは思う。

お味の方は、まぁ普通にうまい。特につゆとおろしと鰹節が好きですね。

加えて言えばそばを不味くする方が難しいんですけどね。

やっぱり全体的にそばの量がもう少しあれば普通に満足だったんですけどね。残念。

 

さて、ささっとご飯を食べた後は、福井を脱出して北へ向かいます。

 ひとまずの目的地は金沢ですが、今回は観光はしません。

もう金沢単品で2,3回旅行に来ているので、ここに時間を割くくらいなら他に回そうという魂胆です。まぁ、乗り換えのために一度下車はしますが。

 

まだ1日しか使用していない18きっぷをなくしかけるというトラブルに対して無駄に体力を消費しつつ、北陸本線を使って北上します。

福井駅から金沢までは1時間30分かからないくらいなので、関東圏なら横浜駅から舞浜駅に向かうくらいの時間ですかね。

恐竜博物館などお残しもあるので、いつかまた来るよ、福井。

 

そして、道中は特に何もなく金沢へ到着。

乗り継ぎまで少しあるので、写真を撮ってました。

金沢駅を有名にしているこの鼓門もあり、金沢駅は世界で最も美しい駅14駅の一つに数えられています。

何度見てもいいですね。

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鼓門(つづみもん)

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金沢駅ー。

雨や雪の日はほんとにこの屋根の部分があるから濡れなくて便利。

今回は晴れの日だったけど、個人的に晴れの日に金沢に来るのは珍しいので、少しテンションがあがりました。

 

15:00くらいになったので、乗り継ぎ先へと向かう。

ここから利用するのは、IRいしかわ鉄道です。

www.ishikawa-railway.jp

これに乗って富山まで向かう・・・途中の高岡で下車します。

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(列車の乗り場は・・・)ここかぁ?

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青色の列車。日本海をイメージさせますね。

はい、第三セクターの鉄道です。JRではありません。

つまりここからしばらく18きっぷが使用できなくなります。

大体新潟に入るくらいまで。

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いやほんと許されねぇからな???

 

まぁ北陸新幹線の開業の都合とかもあるから仕方ないんだろうけど、

金が必要以上に飛んでいく・・・。

フリーきっぷもあったけど土日祝日限定というピンポイントにいじめてくる仕様。今日が日曜だからぎりぎり使えるけど、元は取れないので諦め。

 

気を取り直して、目的地について。

目的地である高岡には2つの観光地があります。

一つは、瑞龍寺。伽藍配置の曹洞宗の寺院で国宝です。

もう一つは、高岡大仏。奈良・鎌倉の大仏に連なる日本3大仏の一つです。

 

どちらも有名どころで、押さえておきたい観光名所。

しかしながら、ここまで予定を事前に組んだチャート通りに進めてこなかったため、時間的にどちらか片方しか行けない事態が発生。もう裏目もいいところ。

高岡に1泊して、次の日も使うというのも考えましたが、この先で行きたいところに到着できるタイミングなんかを加味しながらルートを再構築したところ、残念ながらそれはできないという判断となりました。

 

地方の鉄道旅は列車の接続とその間にいかに観光をこなすかが肝となるので、この辺りを考えるのが楽しくもあるが、難しいところですね。 

 

金沢駅から高岡駅まで40分位ですが、ルート算出に時間をかけてしまったので、到着まではあと少し。

さて、どちらを選ぶにしても、もう時間がない。

しゅー太の決断はいかに。

 

というところで、今回はここまで。

次回はこの続きから。

鉄道日本一周-<北陸編>⑤ 福井(一乗谷)

なんだかんだ1か月開いてしまいました。

 こんにちは、しゅー太です。

この間(?)のGWは外出自粛の(同調圧力に負けた)ため、

自宅で大人しく過ごしていました。リングフィットとか読書とかブログ書いたりとか。

そう、なんとこれ書き始めたの5月頭なんですよね。どれだけ時間使ってるんだ。

余計な事含めて書いてたらもう6月ですよ。早いね。

 

そして、そろそろまた旅に出た意欲が高まってくる今日この頃。

コロナが収まるかは兎も角、外出自粛ムードは緩和されそうだから、堂々と出掛けても大丈夫にはなりそうですね。安全かは知らん。

 

前回は、東尋坊行ってソースカツ丼食って寝たところまで。

今回は一乗谷へ向かう所からスタート。

 

[2日目:2018年7月29日(日)AM 9:00]

お世話になったホテルをチェックアウトし、出発。

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今日の天気は清々しい青空が顔を覗かせている。

夏らしい、気分の良くなる晴れの日でした。

ずっと眺めていたくなりますが、一乗谷に向かうため、駅へ向かいます。

そういえば前回掲載し損ねていた、えちぜん鉄道福井駅の写真。

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小さいながらも綺麗な駅。「箱」って感じ。

さて、一乗谷へはJRを利用します。九頭竜線という路線です。かっこいい。

正式には越美北線と言うらしく、九頭竜線は愛称らしいのですが、福井駅その他での旅客案内では九頭竜線の愛称が使われているそうです。確かに呼びやすいよね。

 

九頭竜線の由来は、終点である九頭竜湖駅から付けられていますが、その九頭竜湖九頭竜ダム建設によってできたダム湖です。九頭竜ダム自体は九頭竜川を利用する目的で建設されたものですが、その九頭竜川の由来と思われるのは、以前解説した白山信仰で登場した九頭竜でしょう。その際、九頭竜王白山権現を名乗り泰澄の前に現れたという話をしました。その白山権現が889年に衆徒の前に姿を現し、尊像を川に浮かべると九つの頭を持った龍が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒龍大明神黒龍大神として白龍大神とともに黒龍川(後の九頭竜川)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願・創祀された。)の対岸に泳ぎ着いたと言います。以来、この川を「九頭龍川」と呼ぶようになったと言われています。

 

九頭竜が出てくる伝承は日本全国にありますが、そのほとんどは最終的に善性を帯びていたり、改心するものになっています。似た神話生物に日本神話に登場するヤマタノオロチが存在しますが、こちらは「水害の化身」とされ、悪性を持つものとして退治されています。『古事記』や『日本書紀』においてスサノオノミコト八塩折之酒(やしおりのさけ)と十束の剣(とつかのつるぎ、別名:天羽々斬(※あめのはばきり))を用いて退治したエピソードが有名ですね。

※羽々(はは)とは大蛇を意味するとのこと。

しかしながら、どちらも蛇(竜)かつ水を司る神なのに、なぜ差があるのでしょうか。

 

九頭竜の成り立ちは、元々インドの蛇神ナーガラージャであるヴァースキが、仏教に八大龍王として取り込まれ、それが日本に伝来した際に九頭竜となりました。また竜は蛇として扱われますが、これも中国から伝来した竜が日本の蛇神信仰と融合した結果となります。何が言いたいかと言えば、九頭竜も神仏習合の結果として誕生した産物だということです。

蛇は日本において古来より、害獣を駆逐する面から「豊穣」の象徴とされており、また、蛇が男根を連想させ種神から転じて穀物神としても信仰されたため、「田の神」としても祀られるようになりました。「田の神」から「水神」が結びつき、蛇は水神の使いもしくは水神そのものと見なされるようにもなりました。蛇だけでなく九頭竜自体も現世利益を求める密教において、雨乞いを司る存在になっています。

※現世利益:神仏の恵みが現世で与えられるとする信仰。俗にいう神頼み。

ちなみに、蛇は豊穣の他に男根や脱皮をする点から「生と死(死と再生)」も象徴しています。悪い意味で現在世間を騒がせている世界保健機関(通称:WHO)のマークにもなっている「アスクレピオスの杖」にも蛇の意匠が見受けられます。また、「永遠の生命」や「終わりがない」といったことを意味することもあります。後はシロヘビは幸運をもたらすなんてのもありますね。

 

つまり九頭竜は、「祀られるべくして登場した存在」と言えなくもないということになります。そこがヤマタノオロチと違う点になりますかね。

 

また同じ仏教かつ水神なら弁財天もいますが、この九頭竜伝承が広まっている場所の共通点に修験道があった山が多いという点が挙げられます。こういった山々は山自体が神秘性を帯びており、豊穣を感謝して山を神様と見立てた水神信仰もあります。神秘性の高い場所であれば竜のような怪異が登場してもおかしくありません。弁財天においても蛇は神の使いとされる場合がありますが、弁財天自体に豊穣の意味がないので九頭竜の方が自然と言えるでしょう。宇賀神の使いとして蛇が登場することがありますが、こちらは穀物神の側面だけとなります。(まぁ、後の世で弁財天と宇賀神が合体するんですが・・・。)

また、竜は雷に見立てられることもあり、雷が「雨をもたらし耕作を手助けするもの」として解釈されていたため、九頭竜が登場したという説もあるそうです。

 

白山という条件を見てみてもこれほど九頭竜の伝承が出てくるのにふさわしい地はないですね。

 

 閑話休題

 

 

さて、ではそんな偉大で恐れ多い神様の名前が付けられた路線を使って、福井駅から一乗谷駅まで30分位かけて向かいます。

それではホームに向かいますか。

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これに乗ればいいんだな!

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は?

なんじゃこりゃぁあ!?(低音ボイス)

今まで、ボタンで開閉や手動でドアをスライドする列車には出会ってきましたが、まさか押して山折りするタイプのドアがまだ現役であるとは思わなかった・・・。

今時バスだって自動だぞ。

これから先このタイプの列車に乗車することがあるのだろうか。

なんて、物思いに耽ながら一乗谷へ向けて出発。

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(茶色いシミはは車窓の汚れです)

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長閑でいいところだぁ

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一乗谷

9:30頃に到着。降車したお客さんは数人いましたが、みな同じ方向に歩いていく様子。

とりあえず付いていけばたどり着けそう。とりあえず、駅前にある地図を写真に収めましょう。迷ったら困るからね。

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結構歩くやんけ・・・。

意外に目的地まで距離がありましたが、予定通り歩いていきます。

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道中にあった神社。

文字がかすれて読みにくいけど、春日神社というらしい。

奥に続く階段があり寄り道をするか迷ったけど、自然に溢れている道だったので撤退。

変な虫とかに刺されても面倒だったので諦め。冬か肌が露出しない服をまとっていたら突入したんだけどなぁ。

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駅から歩いて15分くらいでようやくエリアに。もう汗が止まらない。。。

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モニュメントが見えたあたりで、ちょっとばかし一乗谷の解説を。

一乗谷はかつての戦国大名、朝倉氏が1471年に本拠地を移し、治めていた地域です。ここに朝倉氏は一乗谷城を築き、辺り一帯は城下町となり103年間繁栄しました。その間に1467年に起こった応仁の乱にの結果、荒廃した京都から逃れるように多くの公家(貴族)や僧侶、文人や学者たちといった文化人が流れてきたため、一乗谷は飛躍的に発展し、「北陸の小京都(北ノ京)」と呼ばれました。一番栄えていたのは4代目朝倉孝景(さっきのとは別人さん。初代「孝景」の名前にあやかって自身も同じ名前を名乗った。法名は「宗淳孝景」。)の頃で、最盛期には人口1万人を超えており、当時の戦国大狂乱な時代においても勢力を持ちつつも比較的平穏であったため、より多くの文化人が流れてくる地域となっていました。

 

そんな風に5代にわたって繁栄した一乗谷でしたが、1537年一乗谷城の戦い(刀根坂(とねざか)の戦い)によって、朝倉氏は織田信長に敗北一乗谷は焼き払われてしました。朝倉氏は敗れた後大野へ敗走(寺院を転々とするが最終的に自害)、旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵されました。その後は、朝倉攻めの道案内を務めた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が、信長から守護代職を与えられ一乗谷に館を構えて越前を統治しました。しかし、朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わず、民衆に一揆を起こさせるために画策。1574年越前一向一揆(平泉寺白山神社が全焼したアレ)へと繋がっていきました。

 

とまぁ、朝倉氏が追われてしまった後も火種が尽きなかったのがこの一乗谷と言う地なのです。

 

長々と書きましたが、これから向かうのはそんなかつての姿を垣間見せる「一乗谷朝倉氏遺跡」。福井市の南東約10キロに広がる史跡は、武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、国の重要文化財特別史跡特別名勝に指定されています。一部ではかつての街並みを再現した場所もあり、当時の雰囲気を味わうことができます。

 

んじゃあ、見ていきましょう。

この先にまずあるのは平面復元地区。

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こんな感じの地区がそこそこの広さで広がっている。一軒一軒の間取りは小さい感じ。

関係ないけど、木陰がないのがつらい(小声)。

 

ここからさらに日に照らされ続けながら歩くこと約10分。

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こんな感じの道。

漸く目的の街並みが再現された場所までやってきました。

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復原町並。開場は9:00~17:00(最終入場は16:30)までで、入場料は当時210円。 

今は220円みたい。詳しくはこちら→復原町並ホームページ

個々の滞在時間は30分ほどで、ゆっくり見ても1時間はかからないと思います。

街並みの他にも資料館の役目を果たしている建物があり、パネル解説や展示物が配置されています。後はビデオなんかも流していたから、暑さを避けて休憩がてらに見ることができます。

 

街並みの方はそこまで広くありませんが、しっかりと雰囲気を堪能できるように作り上げられているので、満足できると思います。

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この風景はメディアとかで見たという人も多そう。

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居住区の中

写真撮るの下手かよ。

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ここ一乗谷は当時の遊び道具として、将棋を筆頭に双六や囲碁が盛んだったようで、関連する出土品が数多く見つかっているそうです。

将棋の駒には「朝倉駒」と呼ばれる独自の駒が存在していたみたいです。

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当時使用されていた大工道具なんかも出土。結構綺麗ですね。

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生活に必要な水をためておく場所・・・だった気がする。流石に覚えてない。

 

 こんな感じで用途別に建物を見学できるようになってます。

 

また、道路を渡った反対側には朝倉義景館跡があります。

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現在見られる当時の遺構は5代目の朝倉義景の時のものになります。

 

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遺構はだだっ広い敷地の中に庭があったり、朝倉義景のお墓もあります。

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時間をかければ、遺構が残っている一乗谷城跡地を見に行くこともできますが、歩きだとちと厳しいので今回はスルー。毎回こういう時車で移動したくなるけど、一人だとレンタル料バカにならないんだよね・・・。

 

とりあえず、一通り見終わったので、売店復原町並に直結している売店でアイスを買ってしばし待つ。

ここ一乗谷では「朝倉ゆめまる号」という無料の観光シャトルバスが運行されており、観光スポット同士をショートカットすることができます。

ちなみにこの日2回ほど利用しましたが、乗客は僕一人でした(小声)。

 

時間に余裕があるので、この後は朝倉資料館に向かいます。

暑すぎて建物の中に入りたい欲に負けてしまった・・・。

 

次回はそこから。

鉄道日本一周-<北陸編>④ 福井(東尋坊の帰りは晩御飯にソースカツ丼はいかが?)

こんにちは、しゅー太です。

 

前回は勝山の平泉寺白山神社にお参りしたところまで書きました。

ちなみに前回ほどの情報量はないです。

あんなの毎回は無理に決まってるだろ。

 

[1日目:2018年7月28日(土) PM15:12]

勝山駅からえちぜん鉄道を使って、いったん福井駅まで戻ってきました。

本来ならこの日はこれで行程終了でしたが、

・時間もまだある

えちぜん鉄道のフリーパスがもったいない(貧乏性)

という理由から、明日の予定だった東尋坊へ行くことにしました。

ここで行けば明日以降の行程が短縮でき、やれることも増えるので、

迷わずゴー。

そして、出発前に決めたチャートは初日に崩壊。 いつものことですね。

 

福井駅で乗り換えて東尋坊の最寄である三国港駅へ。

ちなみに、

永平寺や平泉寺白山神社方面に向かう路線→勝山永平寺線

東尋坊へ向かう路線→三国芦原線

と別の路線となるので、福井駅での乗り換えが必要になります。

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進行方向だったかな・・・。それとも逆を撮影したんだっけかな・・・。

福井駅からしばらくは街並みが続きますが、途中からは上記のような何もない、

一直線な線路に代わります。まぁ、街並みがあっても一直線だったんだけど。

三国港駅は終点になるのでそこそこ時間がかかります。

福井駅を15:39に出発し、50分ほどかけて三国港駅に到着。

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こじんまりとした駅

駅前にはバス停があり、このバスに乗れば東尋坊まで10分ほどで到着します。

しかし、自分が到着したのは16:28で、次のバスが17:16と

1時間も開いてしまうことに。。。

なので、今回は歩いて東尋坊へ行く選択をしました。

バス待ってる間に到着できるわ。バスの時刻表は下記から。

bus.keifuku.co.jp

こんな感じで30分ほどの距離で、17時前後かつ日が暮れる前に

到着できそうなので、余裕で明るいうちに東尋坊を拝めそうです。

せっかく行ったのに暗くなってる可能性を考慮してないのさてはバカだな?

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中間地点位から。何か塔らしきものが見えてきましたね。

日本海側の海ってどこか太平洋側と違う感じがするんですけど、自分だけですかね?

道はたまに歩道が掻き消えるので、歩く際は気を付けてください。

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歓迎が過ぎる東尋坊

30分ほどかけ東尋坊へ到着する。

 

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国定公園なのは知らなかった。

東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の特別保護地区に指定されている崖で、波によって浸食された断崖が約1kmに渡って続きます。東尋坊の岩石は輝石安山岩の柱状節理という珍しいものとなっています。

節理とは、wiki曰く「岩体に発達した規則性のある割れ目のうち、両側にずれの見られないものをいう。」とのことです。「両側にずれの見られるもの」は断層になるとのことなので、断層じゃないものとでも捉えればいいんじゃないですかね(適当)。

『規則性のある割れ目』というのは、長方形や台形などの形にひび割れている状態を指します。地質の場合、マグマが冷え固まる時や地殻変動の際に生じます。

節理については下記のサイトで分かりやすくまとめられていますので、詳しいことは下記を参考にしてください。

sawagikyou.holy.jp

では柱状節理とはどういうものかというと、マグマが冷えて固まると体積が縮まる訳ですが、その際、冷却面に対し垂直に節理(亀裂)が入ったものを指します(ざっくり)。縦に亀裂が入るから柱状になるということですね。マグマが冷え固まった地帯に行くとなんだか形の整った石で敷き詰められたかのような地面を見ることもありますが、それは柱状節理の上部だったりします。柱状節理の場合、六角柱のものが多いですが、五・四角柱状のものもあります。

 

ここまでを踏まえて大雑把に成り立ちを説明すると、東尋坊は約1300万年前に地表近くまでマグマが上昇し、冷却。その際に六角柱や五角柱の岩石となりました。その後地殻変動によって地表へ隆起し、波などによって浸食され今の姿へと形を変えました。

 

Q.東尋坊の説明するなら節理がどうとかは置いといて上の三行だけでよかったのでは?

A.うるせえ、俺が解説したかったんだよ(教えてあげる君)

それにしたって「教えてあげる君」のネタって十分古いよね。

 

またここまで大規模な輝石安山岩の柱状節理は世界に三か所しか発見されておらず、地質学的にも大変貴重な場所なります。

※残りの2か所は朝鮮半島の「金剛山」及びスカンジナビアの「ノルウェー西海岸

 

さて東尋坊の名前の由来ですが、前回の記事で出てきた平泉寺白山神社の僧である東尋坊からつけられたと言われています。→下記前回記事リンク

resyuta.hatenablog.jp

『平泉寺に数千の僧侶がいたころ、東尋坊と言う僧がいました。

数千もいると近隣の民に対し悪事を働く僧もおり、そのリーダー的存在になっていたと言われいる層が東尋坊でした。自慢の怪力によって暴れ、他の僧らも困り果てていた。

また、東尋坊はあや姫という美しいお姫様に心奪われており、恋のライバルに真柄覚念(まがらかくねん)という僧がおり両者は犬猿の仲でした。

1182年4月5日、平泉寺の僧らは東尋坊を誘って海辺見物へ向かい、高い岸壁から海を見下ろせる場所に陣取ると酒盛りを始めました。そして、酔いが回り東尋坊が眠った隙に他の僧から合図を出し、この会に同席していた真柄覚念は崖の上から東尋坊を突き落としました。詰まる所、この海辺見物の真の目的とは、皆で結託し東尋坊を海の藻屑とすることにあったという訳です。しかし、その後49日、海は荒れに荒れてしまったといいます。』

このことからこの地は東尋坊と呼ばれることになったと伝えられています。

まぁ、手が付けられないっていうんだから、搦め手使うのは普通だよね。

 

さて、公園入口から実際の東尋坊まで進んでいきましょう。

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入ってすぐの駐車場。既に事故が起きている気がするんですけど(名推理)。

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東尋坊タワー

道中遠くからでも見えた建造物は東尋坊タワー。入口から歩いて5分位。

上るのに必要な料金は500円。登っても東尋坊が見えるわけではないので、登る必要はそこまで感じません。観光地によくあるご当地タワーの一つ。

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東尋坊手前にある「IWABA CAFE」

絶景を見ながらゆっくり過ごせる場所です。多分東尋坊一オシャレな場所。

時間があればゆっくりしたかった。「COFFEE」ではなく「CAFE」なのは良心か。

そして、お待ちかねの東尋坊

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絶景かなああああああああああああああああ!!!!

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結構近くまで寄れます。

近くまで寄れるというか、見た通り柵がないのでがっつり寄れます。

落ちないように細心の注意を払いましょう。海沿いで遮蔽物ものないので、強風が吹きつけています。何があるかわからないので油断してはいけません。

勿論髪はボサボサになりますよ。ええ。

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普通に恐怖心が顔を覗かせる。

結構先の方まで行くことができるので、スリルを味わうこともできます。

ただ東尋坊はその性質上、自殺の名所として有名な場所でもあります。
とは言え近年は減少傾向にあるそうです。

理由はなんとポケモンGO。深夜まで徘徊する人が増えたため、「誰にも見られず」という条件が満たせなくなったたためらしいです。社会貢献度が高すぎる。

こんな感じで感動したり、写真を撮ったり、ぶらぶらしてから帰路に着く。

 

東尋坊米澤穂信の小説「ボトルネック」において、物語の結末を決める重要なポイントとなった地ですので、実際に訪れることができて、個人的にとても嬉しかったです。

面白いし、おススメだからみんな読んで(ダイマ)。

www.shinchosha.co.jp


さて帰りはバスで駅まで向かいます。今日したいことがあと一つあるので、短縮できるところは短縮しましょう。

 

18:30頃に福井駅へ戻り、ここからはまた少し徒歩の時間。

夕ご飯を食べに行きます。

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無敵要塞“福井県庁”

道中横切った福井県庁です。福井城跡を活用して県庁舎を建てたためお堀に守られる形となった福井県庁。面白いですね。個人的にこういうのは好きです。場所の有効利用と県のアピールにもなって一石二鳥。

 

そうしてついでに観光をしながら辿り着いたのがこちら。

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ヨーロッパ軒総本店さんです。

yo-roppaken.gourmet.coocan.jp

福井の名物と言ったら「ソースカツ丼」ですね。

薄い衣をまとったカツにソースをかけた一品。

せっかく福井に行くなら食べたいと思っていたので、今回訪れました。

着いたのは18:50くらいでしたが、そこそこの列が既に形成されていました。

ここまで来たら並ぶ以外の選択肢はないので、最後尾へ。

携帯を弄りながら待つこと20分、ようやく店内へ入れました。

店内はこじんまりとしている感じ。みんな想像できる定食屋だね。

そして迷わずソースカツ丼のセットを注文。

さらに待つこと10分・・・。

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やっっっっっっっっっっっっとありつけます

おなかも減って我慢も限界。さっそくいただきましょう。

さてお味の方はいかほどか。

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最近流行りの。

空腹も合わさって最強ですね。

サクサクのカツに酸味の混ざる甘いタレ

旨くないわけがない。タレのおかげかご飯も進む。

わずか10分ほどで完食。美味でした。

ただ、上記の味の通りなので、

ガツンとした濃厚なお味をお求めの方には少し合わないかもしれません。

食レポは苦手なのでこれでおしまい。

ヨーロッパ軒さんは福井県の中に店舗がいくつか存在するので観光の際に最寄のお店を選ばれるとよいかと思います。

そう考えると静岡の「さわやか」に近いのかも?

あそこの店員さんの対応すごくいいよね。大変だろうけど、また行きたくなっちゃう。

 

さてソースカツ丼も食べ満足したので、これで今日の活動は終わり。

駅近のホテルにチェックイン。

さてこの日泊ったホテル、控えめに言って最強でした。

少し外観は古びてましたが、

1泊5500円

テレビでYouTubeが見れる

コンセントがめちゃくちゃ多い(ここ大事)

部屋ごとにWi-Fiが敷かれている(ここも大事)

駅から徒歩一分

と、ビジホによく宿泊する人なら拍手喝采で迎えられること間違いなしなホテルでした。

5500円でこれなら十分リターンあります。もっと全国に広まれ。

そんな感じでホテルに満足しつつ就寝。

 

翌日は一乗谷へ向かいます。

次回はそこから。

鉄道日本一周-<北陸編>③ 福井(平泉寺白山神社)

こんにちは、しゅー太です。


コロナの影響でこれを書いてる週は自宅待機となったので、時間をフルに使ってました。

更新自体はのろのろペースですが、書きたいこと書いて進めていきます。

 

はよ出かけたい(本音)


[1日目:2018年7月28日(土) AM11:45]

永平寺門のバス停からバスに乗って、揺られること約15分。

永平寺口駅に到着。

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綺麗な駅舎をしています。

ここから勝山駅まで行くのですが、乗車ついでに下記のフリーパスの購入しました。

www.echizen-tetudo.co.jp

これでこの日はえちぜん鉄道が乗り放題となりました。

普通に払うと乗車賃が高く付いてしまうので、このフリーパスは必須かと思います。

値段は1000円なので、お手頃なのも〇。

 

ここから勝山駅までは30分ぐらいかかります。

ちなみに前項で取り上げた恐竜博物館へはこの勝山駅から向かうことになります。

バスが出ているのでこちらに乗車しましょう。

接続情報 - えちぜん鉄道株式会社

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それでは向かいましょう

 そして12:20ごろ勝山駅に到着。

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こちらでも恐竜がお出迎え

さて今回勝山に来て恐竜博物館に寄らず何をするのかと言うと、タイトルにもある通り平泉寺白山神社を見に行きます。

こちらにもバスで向かいます。下のリンクにバス情報が載っています。

接続情報 - えちぜん鉄道株式会社

実際に行った注意点ですが、上記のバスの時刻表を参考に帰りのバスを待っていたのですが、時間になっても来ません。バス停に掲載されているものを確認しましたが間違ってはいなさそう・・・。

その後少ししてバスが来たのですが、運転手の方に「少し待ってから出発する」と言われました。お話を伺ってみるとバスの時刻表に変更があったとのこと。

ですので、上記の時刻表は参考程度に留めておくことをお勧めします。

(とは言え、本当に変更したのならネットの情報も更新しておいてほしい・・・。)

今も同じなのかはわかりませんが、自分が行ったときの時刻表は電車の接続には合わせてはいたので、その点は心配いらないと思います。多分。(勿論予定していた電車にも乗れました。)

ちなみに、バスの料金は毎日運行しているローカル線が200円、土日祝限定の観光バスが300円となっています。

 

自分はローカル線に乗って向かったので、乗車時間は30分ほどとなりましたが、観光バスの方は長くても15分位で着くようです。ただ本数が少ないのでその点も気を付けなくてはいけません。

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そして到着!

平泉寺白山神社とは、「へいせんじはくさんじんじゃ」と読みます。「ひらいずみ」ではないです。717年に泰澄(たいちょう)によって開かれたと言われており、明治時代までは霊応山平泉寺という名称でした。

また、かつては源頼朝に追われた源義経らが、山伏に姿を変えて奥州に逃げる途中でここに立ち寄ったと言われ、義経や弁慶に関する伝説も残っています。

 

さてここで気になることが一つありませんか?そう、

ここは寺院なのか、それとも神社なのかという点です。

 

そもそも、名前にもなっている「白山」は富山・石川・福井・岐阜県の4県にまたがる両白山地の中央に位置する山で、富士山・立山と合わせて『日本三霊山』に数えられています。霊山とは、神聖視され信仰の対象とされた山、即ち山岳信仰の対象の山を指し、この白山も古くから信仰の対象でした。白山から流れる豊富な水によって人々の生活が成り立っていたため、山自体を水神や農業神といった神体として山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川手取川長良川流域を中心に崇められていました。(このような日本古来の純粋な信仰を『古神道』といいます。)

 

古くは紀元前91年に白山を拝むための遥拝所「まつりのにわ」が創建されたと言われており、祭神は菊理媛尊(くくりひめのかみ、白山の白山比咩(ひめ)神と同一視されている)、伊邪那岐尊イザナギノミコト・伊弉諾命)、伊邪那美尊イザナミノミコト・伊弉冉命)の三柱でした。(この3柱には黄泉の国で揉める伊弉諾と伊弉冉の仲を菊理媛尊が取り持つという有名な話がありますね。)

その後、6世紀中ごろに中国から仏教が伝来し、奈良時代には疫病等を納めるため鎮護国家思想が広まったこともあり、日本の古神道と仏教との信仰体系の融合、所謂、『神仏習合(※)』が進んでいきました。この白山にまつわる山岳信仰神仏習合の影響を受けています。

神仏習合:簡単に説明すると「神と仏は同じ存在」という考え方。

 

神仏習合の流れの中に山岳信仰と仏教(特に天台宗真言宗などの密教)が結びついてできた『修験道』と呼ばれる日本独自の宗教があります。これは霊山に入り修行を行うことで悟りを開き、山の霊力を吸収し人々を救済するといったものでした。その修行者を『修験者』といい、奈良時代にはこの修験者が霊山を開山(仏教寺院を開く)するようになっており、泰澄もこの修験者でした。泰澄によって白山が開山されたことで、古来よりあった白山の信仰と修験道が統一化され、『白山信仰』という新たな体系化された宗教へとなりました。

 

泰澄が開山にいたる際の伝承として、白山の主峰、御前峰に登って瞑想していた時に緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音垂迹(仏が仮の姿である日本の神に変えること)である九頭龍王(くずりゅうおう)が自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って現れたことが白山修験場創設の由来となっている、というものがあります。いやこれもうわけわかんねぇな。

神仏習合について補足すると、「仏が主体であり、神は仏が姿を変えた」とする『本地垂迹』という説が存在します。古神道には「ケガレを忌避する(物忌みなどを行う)」という思想がありましたが、「ケガレから根本的に離脱できる」という解決策を提示する『浄土思想』が仏教側から広がりました。浄土思想とは末法からの救済・極楽浄土への往生及び成仏を目的とした思想のことです。仏教は元々インドのヒンドゥー教を由来としており、インドの世界観では、末法の世の日本人は堕落し救済されがたく、正当な方法では救済できないとされていました。そこで、仏が神の姿を取り現れ、厳罰によって人々を導くことで救済を目指す、というのがこの本地垂迹説の意味するところとなります。これにより、仏教が古神道を吸収する形となり、神仏習合はこれまではただ「神と仏は同一の存在である」という概念だったものから、「仏は全能の存在である」という内容で理論化されるようになりました。鎌倉時代中期以降には、逆に「神が主体であり、仏は神が姿を変えた」とする『本地垂迹』が古神道側から出され、仏教から独立する動きが発達していきました。

 

おそらくですが、8世紀にはまだここまでの理論付けがなかったため、上記の伝承の中の神仏がごちゃごちゃしているのではないかと思います。

ついでに言うとある時期は、白山妙理菩薩は白山比咩神(菊理媛尊)とも同一視されていたため、白山比咩神は白山妙理菩薩でもあり伊弉冊尊でもあり菊理媛尊でもあるという存在になっていましたあぁ、もう無茶苦茶だよ。

原因は、本来「白山妙理菩薩≒伊弉冊尊≒白山比咩神」であったが、ある書物に記載された内容を読んだ人物が「菊理媛尊は白山妙理菩薩である(=白山比咩神でもある)」と誤認し、その異説が流布、同一性を獲得するに至ったようです。

 

ちなみに、仏が神の姿を借りて現れた姿のことを「○○権現」と言いますが、この「権」と言う字には「臨時の」や「仮の」といった意味があるそうですよ。

 

翌年718年に泰澄は御前峰にを築き、白山妙理大権現(白山明神・妙理大菩薩)を奉祀しました。

平安時代には、加賀(石川県)・越前(福井県)・美濃(岐阜県)に白山への「禅定道(山頂に上るまでの山道)」が設置され、「加賀の馬場(白山比咩神社)」、「越前の馬場(平泉寺白山神社」、「美乃の馬場(長滝白山神社」と呼ばれました。※括弧内は現在の名称。また「馬場(ばんば)」とは禅定道の起点場所。

そして834年にはそれぞれの馬場に白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立されました。※神宮寺とは、神仏習合が進んだ結果、その思想に基づき神社内に建てられたお寺のことで、神社とお寺の関係(例えばどちらが主体だったかなど)は様々でした。とは言え、神社ありきのお寺なので普通に考えれば、神社が主体なのは間違いないですね。逆にお寺が主体でそこに神社が建てられた場合、その神社のことは「鎮守社」と言います。

 

つまり、平泉寺(現名称:平泉寺白山神社)は越前側に開かれた白山信仰のための拠点寺院ということになります。

平安時代後期である1084年にこの平泉寺は延暦寺の末寺になり、霊応山平泉寺となりました。また、それに続くように他の寺院も延暦寺の勢力入りを果たし、それぞれ白山寺白山本宮、白山中宮長滝寺という名称になりました。そして、718年に御前峰に建てた社。これが白山頂上本社(現在は白山比咩神社奥宮)として扱われることになりました。

 

この霊応山平泉寺ですが、発展を続け室町時代後期の最盛期にはおおよそ1k㎡の土地に48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える要塞宗教都市とでも呼べるような勢力となっていました。

そして1543年には白山寺白山本宮が持っていた白山山頂の管理権や入山料の徴収などの利権を奪おうとしたことで、以後かなり長い間揉めることになります。(白山中宮長滝寺も巻き込まれて争っています。

結論から言えば、1743年に江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(白山中宮長滝寺)が管理すると決められ、平泉寺は白山頂上本社の祭祀権を獲得しました。やったね!

 

ただ、1574年に起きた越前一向一揆により全焼しており、10年後に一部再興されましたが、元の10分の1程度に過ぎなかったそうです。しかし、平成元年の1989年から始まった遺跡発掘調査により当時の境内の遺構がそのまま埋まっていたことが判明し、現在も発掘調査が進められています。ちなみに現時点で発掘できているのは全体の1%ほどだそうです。流石の広さとしかいいようがない。

 

その後、明治時代に入り明治維新の中で、1868年に神仏分離令が出されました。これは神仏習合を禁止し、神社(神、神道)と寺院(仏、仏教)をそれぞれ独立・分離させるものでした。明治政府は今までの江戸幕府のような武家政治から天皇を君主とした政治体制を実現させるため、神道を日本の国教としようとし神仏分離令を出すに至りました。

元々神仏分離には「神仏を区別する」という意味しか持ちませんでしたが、次第に拡大解釈され、「仏教排斥」の意味を持つようになりました。そして、長年仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆によって、寺院や仏像など仏教に関わるものを破壊し排除する「廃仏毀釈」の運動へと発展していきました。これにより歴史・文化的価値を持つものが多数失われたのは残念なことだと思います。

 

ただ、神道国教化の下準備として神仏分離を出しましたが、結果としては神道国教化は失敗しました。神道を国教とするために宣教をしなくてはいけませんでしたが、神道関係者は宣教経験が乏しかったため、仏教界の協力が必要不可欠でした。そのため政府機関に神仏共同布教体制が敷かれることとなりましたが、この共同体制も廃仏毀釈による関係悪化を受け廃止されました。

いろいろ考えてから政府が動かないのは今と大して変わらないな!

また神道国教化にはキリスト教排斥の目的もありましたが、こちらも西洋の国々からの信教の自由の保障を求められたことで、禁教令を廃止したことなどに伴い意味を失い、神道国教化の廃棄へと繋がっていきます。

 

とは言えこの神仏分離によって打撃を受けたのは何も仏教界だけでなく、修験道陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗が禁止されたことで、修験者・陰陽師世襲神職等の伝統的宗教者にも影響を与えました。

 

さて少し話がそれましたが、神仏分離の影響はここ白山にも影響を与えます。

修験道に基づく白山権現は廃社となり、寺号を捨て神社として生きていくことになりました。これにより現在全国の白山権現社の多くは、菊理媛尊を祭神とする神道白山神社となっています。白山寺白山本宮は白山比咩神社に、霊応山平泉寺も平泉寺白山神社に強制的に改組され、白山中宮長滝寺は廃寺こそ免れましたが、長滝白山神社天台宗の長瀧寺に強制的に分離させられました。また寺院関係の建物は解体され、仏像なども一部を残し破壊されてしまいました

余談ですが、その後、歴史史料が調査され3社の中で白山比咩神社が最も古いことが分かったため、全国の白山神社の総本社とされ、白山山頂は白山比咩神社境内となり奥宮が置かれました。主要な禅定道も白山比咩神社の管轄となり、江戸時代の判断とは逆転する形になりました。

 

さて長々歴史も交えて記載しましたが、最初の問いに対する回答はこのようになります。

Q.ここは寺院なのか、それとも神社なのか?

A.平泉寺白山神社は「神社」となります。

 

ここまでたどり着くのにほんと長かったですね。お疲れさまでした。

情報を整理してまとめて書くのは楽しかったので反省はしませんが。

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では、改めて平泉寺白山神社の紹介をしていきましょう。

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2枚前の画像の左側に行くとある「顕海寺」。一向一揆の後建てられたそうです。

ちなみに、ここの鳥居までの坂を『精進坂』と言うそうで、「菩提をもとめて煩悩を断じ身を清め心を慎む」という意味から名付けられたそうです。ちなみに昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていたそうですよ。

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鳥居の先はこんな感じになってます。

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平泉寺白山神社は梅雨から夏にかけて一面に見事な苔が見られることから「苔寺」と呼ばれています。苔寺と言えばもう一つ有名な京都のお寺「西芳寺」がありますが、アクセス的にも西芳寺の方が行きやすいとは思います。

井まで出る手段が面倒なのが悪いよ手段が~。

今回訪れた時期が7月の終わりで、理想的な時期からひと月ほど後ろにずれていたので、ピークは逃してしまっていましたが、名残は感じることができました。

(検索したらピーク時の画像が出るので気になった人は検索してほしいな)

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拝殿。一向一揆によって焼失した後、江戸時代に再建。

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中宮平泉寺」と書いてあります。

奥まで歩いていくと一際目立つものがあります。拝殿です。

拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩松平家の奉納品が多く、ほとんどが勝山市文化財に指定されているとのこと。焼失前の拝殿は京都の三十三間堂よりも大きかったそうですよ。あそこも中々でかいのにあれ以上あったのか・・・。

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本社。1795年に再建されたもの。

拝殿の後ろに回ると本社(本殿)があります。また本殿左側に別山社が、右側に越南知社(おおなむちしゃ、別名:大汝社)があります。この3社は白山を構成している3つの山を表しているそうです。また、本社の扉は33年に一度しか開けられず、次に扉が開けられるのは、2025年(平成37年)みたいです。

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本社から右手に進むとさらに奥へ行く道が現れる。

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三ノ宮。明治22年に改築されたもの。

写真の札にも書かれている通りここでは、栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)を祀っています。また、ここから先が白山へ上る禅定道ともなっています。流石に登山用具などもないし、午後に入ってからの登山などアホの極みなので、今回はここで引き返します。

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三ノ宮をバックに。

観光客の数はそこまで多くなく、木々に囲まれた場所なので、こちらも大変涼しかったです。また、かなり多くのひぐらしが生息しているようで、鳴く音が辺り一面に響いていました。覚えているくらい印象深かったということです。

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苔むした常夜灯。明かりがついたらどんな感じなのか正直気になる。

ここでの滞在時間は大体1時間くらいでした。1時間あれば十分だと思います。足りすぎて困るくらい。また、近くに小さいですが歴史資料館である「白山平泉寺歴史探遊館 まほろば」があるので、そちらも周られるとよいかと。

なんと入場料無料です。

www.city.katsuyama.fukui.jp

大体こんなことをして過ごして平泉寺白山神社を後にしました。

今度は石川県の白山比咩神社にも行ってみたいです。

 

そうして14:20発の電車でいったん福井駅まで戻ります。

次回は戻ったところから。

 

ここまでで漸く1日の2/3が終わったところなんだぜ?

どうしてこうなった。

どうしてこうなった。

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まだまだ現役な丸形ポスト君